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エンジンの響
エンジンのひびき
著者田山 花袋 / 田山 録弥
文字遣い新字旧仮名
底本 「定本 花袋全集 第二十四巻」 臨川書店
1995(平成7)年4月10日
初出「文章世界 第十二巻第五号」博文館、1917(大正6)年5月1日
入力者tatsuki
校正者hitsuji
公開 / 更新2020-06-23 / 2020-05-31
長さの目安約 9 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

想像を排す

 また想像を排さなければならないやうな時代が来た。想像は作をするに就いてはなくてならないものであるのは言ふを待たないが、この想像が新しい時代の人達の単なる要求と相混合して、十のものを百、百のものを千といふやうに、大きなしかし空疎な幻影を描かしめるものの多いに至つては、我々は又例の幻滅論を繰返さなければならなくなる。
 新時代の発生は、自然の順序として、さういふ形を帯びて来るのは、これは止むを得ないことであるかも知れない。自己にあらずんば、自己の体感したものにあらずんば、自から肯がはれないのは、蓋し新時代の若い心の自然の現はれであらう。若い心は物を色濃く見、又は物を誇張して考へ、自然を自己の主観で彩つて見なければ承知が出来ないものである。自然に対する驚異、又は自然力に対する恐怖、知識と体感との程度が低ければ低いほど、その無法な想像の力が根本の要求と共に跳梁を恣にするのである。想像は若い心を天上に持上げると共に、又同じく地下に深く墜落せしむる。実際、事実、自然――この三つを正当に、偏らず歪まずに見たり考へたりすることが出来ないやうにする。憧憬とか、小さな自己肯定とか、乃至は思ひ上つた天才らしい自意識とかに陥つて、自分の実体をすら本当に考へることが出来なくなる。かういふ境地にある若い心は、その前にどんな人生が横つてゐるかも知らなければ、どんな自然が展げられてあるかを知らない。唯々大きなものとか、深いものとか、立派なものとか、豪いものとか、さういふものを自分の眼の前に見るばかりである。私はこれまでに随分長く、又随分多くさうした若い鍛練せざる心の躓いたり、倒れたり、裏切られたり、空中楼閣のやうに土崩瓦解して行くのを見た。見たばかりではない、現に、私もさういふ心の境を通つて来た。そして自己の要求の意の如くならないのを、又想像の頼むに足らないのを嘆いたり悲しんだりした。私は思ふ、若い心に取つては、実にこの無法なる要求と想像との中をいかに潜りぬけて行くかといふことが一にかゝつて其人の力と、精神と、強弱とに存するといふことを。
 直覚はたゞちに自然の神秘に入ることが出来るといふ。それを私は疑はない。しかし、直覚があるからと言つて、常識を踏み躙つて了ふ人達には私は左袒しない。常識は、少くとも自然の外面的『あらはれ』である。又自然の、不可解の自然のある輪廓の集つて出来たものである。無論、自然の堂奥に入らうとするには、常識ばかりではその扉を開くことは出来ないが、直覚が必要ではあるが、しかし直覚と思つて、実は想像であり、幻影であり、単なる要求であるものよりも、ある律を、ある法則をつかんで来てゐるだけそれだけ常識の方が自然に向つて、コツコツ歩を進めてゐる形になる。直覚を常識で包まれて了つて手も足も出なくなつて了つた人は、それは論外だが、私達はその常識の中にゐて、孜々として…

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