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スケツチ
スケッチ |
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作品ID | 48991 |
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著者 | 田山 花袋 Ⓦ / 田山 録弥 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「定本 花袋全集 第二十四巻」 臨川書店 1995(平成7)年4月10日 |
初出 | 「太陽 第二十二巻第九号」1916(大正5)年6月28日 |
入力者 | tatsuki |
校正者 | 岡村和彦 |
公開 / 更新 | 2018-09-30 / 2018-08-28 |
長さの目安 | 約 14 ページ(500字/頁で計算) |
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何うも大袈裟の議論が多い。やれ国民的自覚とか、国民的同化とか、読んで見れば一応は筋道はわかつてゐるが、要するに筋で、肉でない。内容は頗る貧弱で、抽象的の断定ばかり下してゐる。かういふ抽象論は、明治以来何遍文壇に繰返されたか知れないけれど、遂に遂にある風潮を捲き起す為めに役に立つことはない。
何故さうかと言ふに、根本でないからである。或は外国の模倣か、でなければ世間並の雷同か、でなければ単なる智識を基礎としてゐる議論であるからである。小説でも同じであるが、筋なんかいくら立派でも仕方がない。我々はその細かい内容と肉とをこそ貴べ、誇大的な筋などは何とも思つてゐない。
処が筋はわかるが、この肉の内容は、容易に具象的に人間にわかるものではない。単なる智識――読書や学問から得た智識だけでは、到底わからない。訳はわかつても、細かい理解が出来ない。そしてまたこの理解が、年齢により経験によつて無限に度数のあるものである。三十歳の人の自覚と五十歳の人の自覚とでは、非常に相違があるのである。
小説、評論に限らず、何んな学問でも、この肉が必要なのだ。細かに入つて行つた気分と事実とが必要なのだ。それが旨く描いてさへあれば、人はそこから口これを言ふ能はず筆これを記す能はざる新しい気分と事実とを享け入れることが出来るのである。
小説も評論も零細煩瑣に堕したといふ非難の声があるが、その非難の声が却つてこの筋を主張し、抽象論を主張する傾向があるのは、私は賛成することが出来ない。
小説が零細、煩瑣になつた事実は、私もそれを認める。しかしそれは、その内容即ち肉に深く入つて行かうとして、たま/\それが他にそれて行つたのであつて筋論や抽象論よりは、まだしも増しだと言はなければならない。
筋論者、抽象論者は、その論をするに先つて、先づ実際の人間の生活に触れて見るが好い。また、それほど大きな自信があるならば、乞ふ隗より始めよで、忠実にドシドシやつて行つて見るが好い。唯、大刀を振かざしたゞけでは、何の役にも立たない。
社会と個人の関係などに就いても、大分真面目に議論をしてゐた人があつた。しかしそれでもまだ学問や読書から来た単なる智識で物を言つてゐるやうなところが大変にあつた。社会と個人との問題を解釈するに当つて、社会学だとか心理学だとか云ふものは役には立たないとは言はないが、それは個人の経験と心理とにぴたりと合つた時にばかり役立つので、古来の無数の智識の単なる堆積だけでは、到底徹底した考を持つことは出来ないものである。
例を言つて見ると、宗教は古来大慈大悲を理想としてゐるといふ。又、博愛慈善を提唱するをそのつとめとしてゐるといふ。これは昔から幾多の大聖が皆な言つてゐることであつて、終局はそれに相違ないのかも知れないが、まだそれに達しないものがそれを言ふのは、所謂形式に捉へられたもので、…