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寺内の奇人団
じないのきじんだん
作品ID4909
著者淡島 寒月
文字遣い新字新仮名
底本 「梵雲庵雑話」 岩波文庫、岩波書店
1999(平成11)年8月18日
初出「新小説」第17年第4巻、1912(明治45)年4月、「聖潮」第2巻第10号、1925(大正14)年11月
入力者小林繁雄
校正者門田裕志
公開 / 更新2003-02-16 / 2014-09-17
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 水族館の近所にある植込を見ると茶の木が一、二本眼につくでしょう。あれは昔の名残で、明治の初年には、あの辺一帯茶畠で、今活動写真のある六区は田でした。これが種々の変遷を経て、今のようになったのですから、浅草寺寺内のお話をするだけでもなかなか容易な事ではありません。その中で私は面白い事を選んでお話しましょう。
 明治の八、九年頃、寺内にいい合わしたように変人が寄り集りました。浅草寺寺内の奇人団とでも題を附けましょうか、その筆頭には先ず私の父の椿岳を挙げます。私の父も伯父も浅草寺とは種々関係があって、父は公園の取払になるまで、あの辺一帯の開拓者となって働きましたし、伯父は浅草寺の僧侶の取締みたような役をしていました。ところで父は変人ですから、人に勧められるままに、御経も碌々読めない癖に、淡島堂の堂守となりました。それで堂守には、坊主の方がいいといって、頭をクリクリ坊主にした事がありました。ところで有難い事に、淡島堂に参詣の方は、この坊主がお経を出鱈目によむのを御存知なく、椿岳さんになってから、お経も沢山誦んで下さるし、御蝋燭も沢山つけて下さる、と悦んで礼をいいましたね。堂守になる前には仁王門の二階に住んでいました。(仁王門に住むとは今から考えたら随分奇抜です。またそれを見ても当時浅草寺の秩序がなかったのが判ります。)この仁王門の住居は出入によほど不自由でしたが、それでもかなり長く住んでいました。後になっては画家の鏑木雪庵さんに頼んで、十六羅漢の絵をかいて貰って、それを陳列して参詣の人々を仁王門に上らせてお茶を飲ませた事がありました。それから父は瓢箪池の傍で万国一覧という覗眼鏡を拵えて見世物を開きました。眼鏡の覗口は軍艦の窓のようで、中には普仏戦争とか、グリーンランドの熊狩とか、そんな風な絵を沢山に入れて、暗くすると夜景となる趣向をしましたが、余り繁昌したので面倒になり知人ででもなければ滅多にこの夜景と早替りの工夫をして見せませんでした。このレンズは初め土佐の山内侯が外国から取寄せられたもので、それが渡り渡って典物となり、遂に父の手に入ったもので、当時よほど珍物に思われていたものと見えます。その小屋の看板にした万国一覧の四字は、西郷さんが、まだ吉之助といっていた頃に書いて下さったものだといいます。それで眼鏡を見せ、お茶を飲ませて一銭貰ったのです。処で例の新門辰五郎が、見世物をするならおれの処に渡りをつけろ、といって来た事がありました。しかし父は変人ですし、それに水戸の藩から出た武士気質は、なかなか一朝一夕にぬけないで、新門のいう話なぞはまるで初めから取合わず、この興行の仕舞まで渡りをつけないで、別派の見世物として取扱われていたのでした。
 それから次には伊井蓉峰の親父さんのヘヾライさん。まるで毛唐人のような名前ですが、それでも江戸ッ子です。何故ヘヾライと名を附けた…

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