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山のホテル
やまのホテル
作品ID49099
著者田山 花袋 / 田山 録弥
文字遣い新字旧仮名
底本 「定本 花袋全集 第二十七巻」 臨川書店
1995(平成7)年7月10日
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者岡村和彦
公開 / 更新2020-12-13 / 2020-11-27
長さの目安約 3 ページ(500字/頁で計算)

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本文より


 金剛山にある二つのホテル、中でも長安寺にあるものは面白い。ホテルと名には呼ばれてゐても、大きな建物があるではなく、長安寺の一部を借て、僧房を仕切て、それに No, 1 とか No, 2 とか番号をつけてゐる。そこに無造作に寝台と卓子とが置いてある。食堂と言つても、いくらか大きい僧房に二つ三つ卓子を配置してそれに晒布をかけただけである。そしてそこにゐる人達が面白い。ボーイもコツクも支配人も番頭も皆満鉄の社員で、六月から十一月ごろまで、客が来やうが来まいが、さびしからうがさびしくなからうが皆役目で来てゐる。上さんを伴れて来てゐるものも中にはあるが大抵はひとりである。何と言つても汽車の線路から三十里も山の中に入るのだから、たとへ自動車が通つてゐるにしても、女を伴れて来るのは大変である。で、大抵はひとりでゐる。それを目蒐けて朝鮮の女が酒を売りに来るといふ話である。しかしそれは私は知らない。
 従つてホテルの人達は旅客の来ることを非常に喜ぶ。毎日夕方になると、唯一の交通線である平康からの自動車が疲れた旅人のやうに微な爆音をあたりの翠微に震はせながら、白い埃塵に包まれて入つて来るが、それを聞くと、支配人もコツクもボーイも誰も彼も皆その周囲に集つて行つて、何等かの期待をそれに持つのである。旅客が一人でもその中に入つてゐれば無論双手を挙げて喜んで歓迎するが、それがなくとも、或は妻からの手紙、恋人からの手紙、でなければ葡萄酒の一罎、変つた缶詰の一包をそこに期待するのを毎日の唯一の楽みとしてゐるのである。丁度絶海の孤島の船着に時をきめて入つて行く汽船を待つ人達のやうに。
 その自動車の通つて行く路がまた面白いのである。さびしい平凡な平康の停車場を発足点として、或は白い埃塵の立つ真直な長い一条の路、或は軒の低い白ちやけた家屋の混雑と連つてゐる田舎の町或は自動車の爆音に驚いてはね上る牛を一生懸命で路傍に引寄せようとする労働者、でなければ次第に迫つて来る山と山との間に挟まれたやうになつて見えてゐるさびしい村落、漢江の一支流を成してゐる渓谷にかゝつて行つた時にはそれをわたるために、対岸から扁平たい大きな船の朝鮮人に棹さゝれてやつて来るのを長い間待たなければならないのであつた。ある田舎町からは、一見したところでは何うしても日本人としか思へないやうな朝鮮人が大きな包を持つて乗つた。中でもことに忘れられないのは、日暮近く、断髪嶺へと路がかゝつて行つて、その峠の上から一万二千峰の称ある金剛山の[#挿絵][#挿絵]をさやかに夕日の影の中に眺めた時のことであつた。



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