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硯と殿様
すずりととのさま |
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作品ID | 4912 |
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著者 | 薄田 泣菫 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「日本の名随筆 別巻9 骨董」 作品社 1991(平成3)年11月25日 |
入力者 | 門田裕志 |
校正者 | 高柳典子 |
公開 / 更新 | 2005-05-20 / 2014-09-18 |
長さの目安 | 約 2 ページ(500字/頁で計算) |
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犬養木堂の硯の話は、あの人の外交談や政治談よりはずつと有益だ。その硯については面白い話がある。徳川の末期に鶴笑道人といふ印刻家があつた。硯の善いのを沢山持ち合せてゐたが、その一つに蓋に大雅堂の筆で「天然研」と書いたのがあつた。阿波の殿様がそれを見て、自分の秘蔵の研七枚までも出すから、取り替ては呉れまいかとの談話があつたが、鶴笑はなか/\諾とは言はなかつた。
呉れぬ物が猶ほ欲しくなるのは、殿様や子供の持つて生れた性分で、阿波の殿様は、望みとあらば何でも呉れてやらうから、達て「天然研」を譲つて貰ひたいと執念く持ちかけて来た。鶴笑は一寸顔を顰めた。
「ぢや仕方が無い、阿波の国半分だけ戴く事にしませう。」
と切り出した。鶴笑の積りではそれでも大分見切つた上の申出らしかつた。何故といつて阿波の国は半分割いた処で、別段差支もなかつたが、硯だけは半分に割つては何うする事も出来なかつた。あの内閣や政党を毀す事の大好きな木堂ですら「鋒」とやらを見るためには、硝酸銀で硯を焼かなければならぬ、そんな勿体ない事が出来るものぢやないといつてゐる位だから。
だが勘定高い殿様はそれを聞くと、
「仕方がない、この硯と鳴門の瀬戸は俺の力にも及ばぬものと見えるて。」
と、溜息を吐いてあきらめた。殿様がこの場合鳴門の瀬戸を思ひ出したのは賢い方法で、人間の力で自由にならないものは沢山あるのだから、その中からどんな物を引合ひに出さうと自分の勝手である。かうして絶念がつけばそんな廉価な事は無い筈だ。