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季節の変るごとに
きせつのかわるごとに |
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作品ID | 49139 |
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著者 | 片山 広子 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「燈火節」 月曜社 2004(平成16)年11月30日 |
初出 | 「美しい暮しの手帖 八号」1950(昭和25)年7月 |
入力者 | 竹内美佐子 |
校正者 | 富田倫生 |
公開 / 更新 | 2008-12-20 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 5 ページ(500字/頁で計算) |
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季節の変るごとに、武蔵野はそれより一足先きに春秋の風がふき、霜も雪も早く来る、夏草が茂るのも早い。その野原に近い家で何年か暮して来て、毎日の生活には季節の物をたべてゐるのが一ばんおいしく、一ばん経済であることもおぼえた。
冬から春にかけ、らくに手に入るものは、野菜の中で一ばん日本人好みの大根で、それに白菜、小蕪、ほうれん草、果物では林檎とみかんをずうつと六ヶ月位たべ通すのである。十二月、正月にかけて乾柿が出る。新春のなますに乾柿を混ぜたものは世界のどこにもない美味である。冬の葱だけは都の西北の畑には貧弱なものしか出来ない。大森や池上あたりの白根の長いあの豊かな味の物は手に入りにくいから、しぜん、葱を防寒料理に用ひることはさほど愉しいとも思はなくなつた。それは私だけの話。春になつてまづ楽しみはいちご。春深くなればそら豆やゑんどう。家々の庭や垣根に豌豆の白や紫の花が眼をよろこばせ、夏近くまでふんだんに食べられる。竹の子は日本特有の味をもつてみごとな形をしてゐるけれど、ただ季節のにほひだけで、毎日じやんじやん食べたい物ではない。竹取の伝説や源氏物語にも出てきて、古くからの食料と思はれる。蕗はそれよりも田園調で、庭のすみの蕗をとつてゐる時、わかい巡礼さんの歌なぞ聞えるやうな錯覚さへ感じられる。蕗のとうは鶯の声よりもつと早く春を知らせてくれる。
初夏の空気に夏みかんが現はれ、八百屋が黄いろく飾られる。一年中に一ばん酸つぱい物がこの季節に必要なのかもしれないが、すこし酸つぱすぎる。その次は可愛い新じやが。小さい物は生物も青ものもどれも愉しい。びわ、桃、夏のものは林檎やみかんほど沢山はたべられない。吉見の桃畑も今では昔のやうにおいしい水蜜を作らないのかと思ふ。遠方からくる桃は姿が美しくつゆけも充分あるけれど、東京のものほどすなほな味でない。五月六月七月、私たちのためにはトマトがある。どんなにたくさん食べてもよろしい。同時に胡瓜。この辺ではつるの胡瓜も、這ひずりのも、すばらしい物で、秋までつづく。茄子は東京も田舎も、冬の大根と同じやうに日本風のあらゆる料理に最も奥ふかいうまみを持つてゐて、一ばん家庭的な味でもある。
やがて梨と葡萄が出て、青い林檎もみえ、秋が来る。キヤベツ、さつまいも、南瓜、栗や柿。それに松茸の香りが過去の日本の豊かさや美しさを思ひ出させる。
八百屋の口上みたいに野菜と果物の名をならべて、さて困つたのは、牛蒡とにんじん、どの季節に入れようか? お惣菜に洋食に、花見のお弁当に、正月のきんぴらに、殆ど一年ぢうの四季に渡つてたべつづけてゐる。あの牛蒡の黒さ、にんじんの赤さ、色あひだけでもにぎやかで、味がふくざつである。それから書きわすれたのは、八月の西瓜。グラジオラスの花に似たうす紅色ととろけるやうな味覚。口のなかでとけてしまふものはアイスクリームやシヨ…