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仔猫の「トラ」
こねこの「トラ」
作品ID49140
著者片山 広子
文字遣い新字旧仮名
底本 「燈火節」 月曜社
2004(平成16)年11月30日
初出「婦人朝日 第四巻第一号・新年特別号」朝日新聞社、1949(昭和24)年1月
入力者竹内美佐子
校正者富田倫生
公開 / 更新2008-12-20 / 2014-09-21
長さの目安約 3 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 トラ子はもみの頸輪をして、庭のいてふの樹を駈けあがりかけ下りたりしてゐる。トラ子の木のぼりは彼唯一の芸で、私たちをたのしませるために一日に一二度はやつて見せる。トラ子といふのは今年の六月生れの、ほんとうは雄猫である。はじめ隣家にもらはれて来たが、そこには犬と二匹の仔豚がゐて、おさない猫の心にも怖くて落ちつかないらしく、私の家に来ては食事をねだつてゐた。物をたべさせるとそこに住みつくといふから、隣家に義理を立ててほんの少しの物しか食べさせず、来れば庭に追ひ出すやうにしてゐると、その後来なくなつてどこかに拾はれたらしく、二週間もたつて見た時には、赤い頸輪をして何か忙がしさうに庭を横ぎつてゆくところだつた。トラ子と呼ぶと、どきんとしたやうにあわてて逃げたが、すぐまた思ひ返して、ここの家にも一飯の義理があると思つたらしく、すぐにお勝手から上つて来て、いつもどほりに鳴いて何かねだつた。彼は虎毛の黒つぽい顔をしてゐるのに、その時はさも赤面したやうにはづかしさうな愛嬌を顔いつぱい見せてゐた。
 隔日ぐらゐに来ておひるを食べて庭で遊んで夕がた帰つてゆく。雨のふる朝来たとき、頸輪がひどく汚れてゐたから、それをはづしてやると、また新しい紅絹の頸輪で次の日に現はれた。トラは大事にされてゐるな、真あたらしい紅絹だから、わかい令嬢のゐる家だらうと思つてみた。カステラやイモが好きなので、をんな猫のやうな錯覚を感じて「トラ子」とよび慣れてしまつた。けふもまた何かねだるのだらう。
 過去に私はトラ子によく似た仔猫を知つてゐた。やはり黒の勝つた虎毛で尾がまるく長く、金いろの丸い眼をもつてゐた。猫を愛する夫人が八匹ほど育ててゐて、その中の一ばん可愛いやつだつた。夫人はその猫を「ニトラ・マルメ」と名づけた。故人となられた新渡戸博士の家にゐたスペイン猫の子供だつたから、姓は「ニトラ」眼がまるいから「マルメ」といふ名であつた。夫人は教養たかいアメリカ婦人で、猫たちにも詩的なのや、しやれた名をつけた。庭に迷ひこんで来たキジ猫を「キシロ」といひ、赤猫は「アカ」で、白猫は「マシロ」、赤猫の子どもを「コアカ」といふやうに。そのほかに鼈甲のやうな黒と黄いろのまだらの猫で「ベツコ」といふのもゐた。夫人が母君のお見舞にアメリカに帰られたついでにペルシヤ猫を買つて来られた。「ブリュ・クラウド」つまり「青い雲」といふ名で、青黒い毛のすばらしい大猫だつた。
 夫人は、大谷大学の教授鈴木大拙博士の夫人ビアトリス女史で、もう今は世に亡いかたである。私は夫人に厚いお世話になつた。アイルランド文学の本がたくさん丸善に来てゐるから、読んでみては? とすすめて下さつたのも夫人であつた。大拙博士もその頃はおわかくて、お茶を一しよに上がりながら、片山さん、また猫が二ひきふえましたよと、猫の噂をなさつた。温かい思ひ出である。その過去か…

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