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浜田山の話
はまだやまのはなし
作品ID49144
著者片山 広子
文字遣い新字旧仮名
底本 「燈火節」 月曜社
2004(平成16)年11月30日
入力者竹内美佐子
校正者富田倫生
公開 / 更新2008-12-20 / 2014-09-21
長さの目安約 6 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 和染の大家である木村和一氏が大森新井宿の家を引払つて井の頭線浜田山に移られた後、その改築された殆ど新築のやうな意気なお家を私は娘につれられてお訪ねした。大森からはたいへんな田舎のやうに思はれる浜田山で、青々した畑がひろがつてる中に山のやうに樹々のかたまり繁つたところもあり、竹籔もあり、農家が樹のかげにすこし見えたりしてまことに閑静な土地と思つた。空気の新鮮さは信濃の追分あたりを歩いてゐる時のやうで、しみじみ胸に浸み入る感じだつた。この村に自分が越して来ようとはその時少しも考へなかつたが、さて一年ばかりのうちに時勢がひどく悪化して空模様は不安になり、警報が朝から夜まで幾たびも鳴りひびいて、のんきな私も落ちついてゐられなくなつた。ちやうどその時分に娘がまた木村さんをお訪ねして、ぢき近いところに小さな売家があると伺つて来たので、私たちは相談の結果その家を見に行つた。
「この家を買ひませう」と私が即座に言つたのは、気のながい私にしては不思議な事であつたが、さうした廻り合せで私は二十余年住みなれた大森を出て来たのである。殆ど硝子張りといつたやうなアトリエ風の小家で、雨戸や畳もなく壁はテツクスだから、雨かぜの夜は武蔵野のまん中で野宿して濡れしほたれてゐるやうな感じもしたが、私はわりに気らくで、一二年もすればまた大森の家に帰れる、これは疎開の家だといふ風に考へてゐた。浜田山といつても別にどこにも山があるのではなく、ところどころに椎や樫の大樹がしげつて、それが空を被うて山のやうであつた。この土地は開けるのがわりに遅かつたから古い樹々も竹籔も伐られずにゐたのだと思はれる。駅から西にあたつて三井グラウンドのひろびろと青い芝生があり、白ペンキの低い木の柵がめぐらされて何時も明るい清潔な感じを見せてゐる。駅の東の方にやや遠く、広い草原があり、松の大樹が無数にそびえ立つて、松の根もとをうねる細みちにはひる顔の花が咲いたりして、美しい松山があつた。
 いつ聞くともなく聞いたのは、この松山がむかし浜田弥兵衛の家のあつた土地で、浜田弥兵衛は長崎や台湾であれだけの働きをした人だから、その名を記念してこの土地を浜田山といふやうになつたといふ話であつた。浜田家はそれほど大へんな豪家ではなく、浜田山だけでは八町八反の地主であつたが、ほかが小さい農家ばかりであつたから、この辺の庄屋の家であつたのだらう。
 浜田家のお稲荷さんはこの辺全部の鎮守様みたいなもので、そのお稲荷さんに遠慮して浜田山には一つのお寺もなく神様もないのだと聞いてゐるが、本当かどうか知らない。しかしいちばん近い寺は西永福と永福町とにある。昭和二十年この浜田家の屋敷跡の松山を軍の方で買ひ上げて油の貯蔵所を造り、南と北の入口に番兵が立つやうになつてから、私たちはもう自由にこの松山の草みちを通行ができなくなつた。永福町が焼けたその同じ夜…

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