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創建清真寺碑
そうけんせいしんじひ |
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作品ID | 49147 |
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著者 | 桑原 隲蔵 Ⓦ |
文字遣い | 旧字旧仮名 |
底本 |
「桑原隲藏全集 第二卷」 岩波書店 1968(昭和43年)3月13日 |
初出 | 「藝文 第三年第七號」1912(明治45)年7月 |
入力者 | はまなかひとし |
校正者 | 染川隆俊 |
公開 / 更新 | 2012-03-10 / 2014-09-16 |
長さの目安 | 約 19 ページ(500字/頁で計算) |
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創建清眞寺碑は支那の陝西省西安府城學習巷の清眞寺内に在る。支那に於ける囘教の傳來を記した最古の石碑として、囘教徒の間には非常に珍重されて居る。碑文に據ると唐の玄宗の天寶元年(西暦七四二)の建設であるから、かの徳宗の建中二年(西暦七八一)に建てられた大秦景教流行中國碑よりも約四十年前のものである。
西暦千八百六十六年に露國の Palladius 僧正が始めてこの碑を學界に紹介したが、餘り世間一般の注意を惹くに至らなかつた。西洋の學者で實地に就いてこの碑を親覩した人もなく、且は支那の金石書類にこの碑を著録してないから、碑その物の存在に就いてすら疑惑を挾む者も尠くなかつたが、一昨年の末に出版された Broomhall 氏の『支那のイスラム教』中に初めてこの碑の照相を掲げてから、漸くこの疑惑の雲は霽れて來た。
吾輩は去る明治四十年の秋、西安に遠征を試みたる際に、この清眞寺を訪ふたが、時黄昏に迫つて、創建清眞寺碑の所在を確め得ずに歸途に就いた。併しその後幸に在西安鈴木教習の好意によつて、碑の拓本を手にすることを得た(本文は後に掲載されてある)。
一體今日支那全國に於ける囘教徒の數は甚だ多い。最近の Broomhall 氏のやや精密な調査には、その數を四百七十三萬(最少數)乃至九百八十二萬人(最多數)と算して居る(1)。支那囘教の研究の開拓者として盛名ある Thiersant 氏はこれを二千萬乃至二千百萬人と算して居る(2)。兩者の間に隨分懸隔はあるが、國民の總數すら確實に調査されて居らぬ支那では蓋し免れ難い結果である。たとひ具體の數は知り得ずとも、吾が輩の陝西直隷方面旅行の實驗によつても、支那に於ける囘教徒の數の意外に多大なることだけは保證できる。
かく多數を占むる囘教徒の政治上に於ける勢力は侮るべからざるものがある。明以前はしばらく措き、清朝に入つて乾隆帝が囘部の戡定に手を着けてから、嘉慶、道光、咸豐、同治、光緒の五代にかけて、或は雲南方面に於て、或は陝甘新疆方面に於て、囘教徒騷亂の警報殆ど絶間がなかつた。中華民國の成立した今日でも、或は陝西巡撫の升允が囘教徒と結託して保皇を唱へるとか、南路の囘教徒が新疆都督の袁鴻祐を殺害して獨立を圖るとか、著々暗中飛躍を試みて大總統袁世凱の心肝を寒からしめて居る。勿論過ぐる三百年の間に囘教徒は清朝の爲に尠からざる打撃を受けて居る。併し彼等は決して之によつて挫折せぬ。彼等には洋々たる未來がある。熱烈なる彼等は著々支那人の感化に成功し、遂に全國を擧げて囘教徒たらしめずんば止まざる概がある。彼等はこの時期の必ず到來すべきことを確信して居る(3)。
此の如く支那の過去現在將來に對して重大なる關係を有し又は有すべき囘教のことは未だ十分に研究されて居らぬ。第一に囘教が支那に傳來した時代すら甚だ明瞭を缺いて居る。支那の正史はこの問題…