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父の死
ちちのし
作品ID49280
著者久米 正雄
文字遣い新字旧仮名
底本 「ふるさと文学館 第二四巻 【長野】」 ぎょうせい
1993(平成5)年10月15日
初出「新思潮」1916(大正5)年2月号
入力者林幸雄
校正者鈴木厚司
公開 / 更新2009-03-01 / 2014-09-21
長さの目安約 26 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

     一

 私の父は私が八歳の春に死んだ。しかも自殺して死んだ。

     二

 その年の春は、いつもの信州に似げない暖かい早春であつた。私共の住んでゐた上田の町裾を洗つてゐる千曲川の河原には、小石の間から河原蓬がする/\と芽を出し初めて、町の空を穏かな曲線で画つてゐる太郎山は、もう紫に煙りかけてゐた。晴れた日が幾日も続いて乾いた春であつた。雪解時にもかゝはらず清水は減つて、上田橋の袂にある水量測定器の白く塗られた杭には、からびた冬の芥がへばりついてゐた。ともすると浅間の煙りが曲つてなびき、光つた風が地平を払つて、此小さい街々にあるかない春の塵をあげた。再び云ふがそれは乾いた春であつた。
 其一日、私はいつもと違つて早く遊びを切り上げて家へ帰つた。私にはどこへ行つても友達の二三はあつた。そして其友達たちの多くは定まつて年上の子であつた。それは一つには私がひどくませてゐて、まだ学校へ入らぬ前から読本なぞも自由に読め、且つ同年位の子の無智を軽蔑したがる癖があつたのと、一つには父が土地の小学の校長をしてゐた為めに、到る所で私は『校長の子』といふハンディキャップの下に、特別に仲間入りをさせて呉れる尊敬を彼等の間に贏ち得たからであつた。その校長の子は今日その遊び仲間を振り切つて帰つて来た。何となしに起る儚ない気鬱と、下腹に感ずる鈍い疼痛とがやむを得ずその決心に到らしめたのである。
「腹を下すと又叱られる。」
 と私は帰り乍ら小さい心の中で思つた。そして、「家へ帰つて少しの間静かにしてゐれば癒るだらう。さうすれば誰にも知られず、又叱られもしまい。さうだ。黙つてゐよう。黙つてゐる間に癒つて了へば又厭な薬を飲まなくても済む。かうして早く帰れば腹の痛み位ゐ直ぐ癒るに定まつてゐる。戸外で底冷えのする夕方まで遊んでゐるのが、いつも病気の原因になるのだ。……」
 こんな考へを永い間胸の中で上下し乍ら来る間に、いつの間にか家の前まで来てゐた。ふと気がついて顔を上げると、反対の方向から恰度父が帰つて来て、門を這入る所であつた。父は振り返つて其小さい次男の白いどこか打沈んだ顔色と、其何かを軽く恐れてゐる二つの眼を見た。息子も亦、広い薄あばたのある、男親の暖かさと教育家の厳かさが、妙な混合をなしてゐる父の顔をぢつと見て立つた。二人の間には漠然とした愛と、漠然とした怖れが静かに横はつてゐるのだと、息子には感ぜられた。
「辰夫、おまへお腹が痛くはないかい。」
 と父は私に訊いた。私は呆然たる驚きの中に再び父の顔を見た。そして其慈愛を抑へた眼の中に、何かしら不思議な能力のあるのを見てとつたやうな気がした。何かの童話の主人公のやうに、父は私の秘しに秘してゐる事も瞬く間に見抜いて了ふのだ。それでこれは匿しても迚も駄目だと咄嗟の間に思ひ決めて、そつと答へた。
「えゝ少し……。」
「さうか。お…

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