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眼
め |
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作品ID | 49298 |
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著者 | 徳永 直 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「徳永直文学選集」 熊本出版文化会館 2008(平成20)年5月15日 |
入力者 | 門田裕志 |
校正者 | 仙酔ゑびす |
公開 / 更新 | 2009-01-05 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 10 ページ(500字/頁で計算) |
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「ね、あんた、今のうち、尾久の家(親類)へでも、行っちゃったがいいと思うんだけど……」
女房のお初が、利平の枕許でしきりと、口説きたてる。利平が、争議団に頭を割られてから、お初はモウスッカリ、怖気づいてしまっている。
「何を……馬鹿な……逃げ出すなんて、そんな……アッ、ツ、ツ」
眼をむいて、女房を怒鳴りつけようとしたが、繃帯している殴られた頭部の傷が、ピリピリとひきつる。
「だってさ、あんた……」
お初は、何かに追ったてられるように、
「あんた、争議団では、また今朝、変な奴らが、沢山何ッかから、来たんだよ………あんな物騒な奴らだものあんた、ほんとうに、命でもとり兼ねないよ……あれ、ホラ、あんな沢山ガヤガヤ云ってるじゃないの、聞えない?」
聞えないどころか、利平の全神経は、たった一枚の塀をへだてて、隣りの争議団本部で起る一切の物音に対して、測候所の風見の矢のように動いているのだ。
ナ、何を馬鹿な、俺は仮にも職長だ、会社の信任を負い、また一面、奴らの信頼を荷のうて、数百の頭に立っているのだ……あンな恩知らずの、義理知らずの、奴らに恐れて、家をたたんで逃げ出すなンて、そんな侮辱された話があるものか。
「うるさいッ……あんな奴らはストライキで飯を食って歩いてる無頼漢だ、何が出来るものか……うるさいから階下へ行ってろ、階下へ行けッてば……」
お初は、仕様ことなく、赤ん坊を抱いて立上ったが、不安は依然として去らない。
「あたしはおろか、子供たちだって、外出も何もあぶなくて出来やしない」
口のうちで、ブツブツ云っている。
「おい、おい、階下にいる警察の人に、川村検挙りましたかって、聞いて来い」
昂奮すると猶のこと、頭部の傷が痛んで来た。医者へもゆけず、ぐるぐるにおしまいた繃帯に血が滲み出ているのが、黒い塀を越して来る外光に映し出されて、いやに眼頭のところで、チラチラするのである。
恩知らずの川村の畜生め! 餓鬼時分からの恩をも忘れちまいやがって、俺の頭を打ち割るなんて……覚えてろ! ぶち込まれてから吠面掻くな……。
仰向けに、天井板を見つめながら、ヒクヒクと、うずく痛みを、ジッと堪えた。
会社がロックアウトをして以来、モウかれこれ四十日である。印刷機械の錆付きそうな会社の内部に在って、利平達は、職長仲間の団体を造って、この争議に最初の間は「公平なる中立」の態度を持すと声明していた。尤もそれを信用する争議団員は一人もありはしなかったが……しかし、モウ今日では、利平達は、社長の唯一の手足であり、杖であった。会社の浮沈を我身の浮沈と考えていた。彼等は争議団員中の軟派分子を知っていた。またいろいろの団員中の弱点も知っていた。それで第一に行われたのが、「切り崩し」「義理と人情づくめ誘拐」であった。しかしそれも大した功を奏しなかった。そこで今度は、スキャップ政策…