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![]() おくじょうのきょうじん |
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作品ID | 494 |
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著者 | 菊池 寛 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「菊池寛 短篇と戯曲」 文芸春秋 1988(昭和63)年3月25日 |
入力者 | 真先芳秋 |
校正者 | 大野晋 |
公開 / 更新 | 2000-02-08 / 2014-09-17 |
長さの目安 | 約 16 ページ(500字/頁で計算) |
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人物
狂人 勝島義太郎 二十四歳
その弟 末次郎 十七歳の中学生
その父 義助
その母 およし
隣の人 藤作
下男 吉治 二十歳
巫女と称する女 五十歳位
時
明治三十年代
所
瀬戸内海の讃岐に属する島
舞台 この小さき島にては、屈指の財産家なる勝島の家の裏庭。家の内部は結いめぐらした竹垣に遮ぎられて見えない。高い屋根ばかりが、初夏の濃緑な南国の空を画っている。左手に海が光って見える。この家の長男なる義太郎は、正面に見ゆる屋根の頂上に蹲踞して海上を凝視している。家の内部から父の声がきこえる。
義助 (姿は見えないで)義め、また屋根へ上っとるんやな。こなにかんかん照っとるのに、暑気するがなあ。
(縁側へ出て)吉治! 吉治はおらんのか。
吉治 (右手から姿を現す)へえなんぞ御用ですか。
義助 義太郎を降してくれんか。こんなに暑い日に帽子も被らんで、暑気がするがなあ。どこから屋根へ上るんやろ。この間いうた納屋のところは針金を張ったんやろな。
吉治 そらもう、ちゃんとええようにしてありますんや。
義助 (竹垣の折戸から舞台へ出て来ながら、屋根を見上げて)あなに焼石のような瓦の上に座って、なんともないんやろか。義太郎! 早う降りて来い。そなな暑い所におったら暑気して死んでしまうぞ。
吉治 若旦那! 降りとまあせよ。そなな所におったら身体のどくやがなあ。
義助 義やあ、早う降りて来んかい。何しとんやそなな所で。早う降りんかい、義やあ!
義太郎 (けろりとしたまま)何や。
義助 何やでないわい。早う降りて来いよ。お日さんにかんかん照り付けられて、暑気するがなあ。さあ、すぐ降りて来い。降りて来んと下から竿でつつくぞう。
義太郎 (駄々をこねるように)厭やあ、面白いことがありよるんやもの。金比羅さんの天狗さんの正念坊さんが雲の中で踊っとる。緋の衣を着て天人様と一緒に踊りよる。わしに来い来いいうんや。
義助 阿呆なこというない。お前にとりついとる狐が誑しよるんやがなあ。降りんかい。
義太郎 (狂人らしい欣びに溢れて)面白うやりよるわい。わしも行きたいなあ。待っといで、わしも行くけになあ。
義助 そななことをいうとると、またいつかのように落ち崩るぞ。気違いの上にまた片輪にまでなりゃがって、親に迷惑ばっかしかけやがる。降りんかい阿呆め。
吉治 旦那さん、そんなに怒ったって、相手が若旦那やもの効くもんですか。それよりか、若旦那の好きなあぶらげを買うて来ましょうか。あれを見せたらすぐ降りるけに。
義助 それより竿で突ついてやれ、かまやせんわい。
吉治 そななむごいことができるもんな。若旦那は何も知らんのや。皆憑いている者がさせておるんやけに。
義助 屋根のぐるりに忍び返しをつけたらどうやろうな、どうしても上れんように。
吉治 ど…