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池を掘る
いけをほる |
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作品ID | 49504 |
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著者 | 片山 広子 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「燈火節」 月曜社 2004(平成16)年11月30日 |
入力者 | 竹内美佐子 |
校正者 | 林幸雄 |
公開 / 更新 | 2009-09-27 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 7 ページ(500字/頁で計算) |
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その頃、防空壕は各戸に一つか二つ位づつ掘られてゐたが、防火貯水池もだんだん必要となつて来たので、至急に用意をするやうその筋の命令が出た。山王一丁目二丁目新井宿一丁目から七丁目まで一町ごとに一つの貯水池はぜひ必要で、神社の境内か町内の空地にそれぞれ掘る支度をしたのだが、さて新井宿三丁目は郵便局や銀行もあり一ばん賑やかな通りで空地は一つもなかつた。神社は熊野神社を祭つてあるが、これは高い石段をのぼつて松や杉の茂つた上の方まで行くのだから、むろん貯水池なんぞ掘れない。町会の人たちは大いに考へて、一ばん住む人のすくない一ばん庭のひろい一軒の住宅に目ぼしをつけたのが、不幸なことにそこは私の家であつた。
町会と区役所の人たちが頼みに来るまで私はそんな事を夢にも考へなかつた。個人の家の庭に町会の貯水池が掘られるといふことは、誰だつて考へない事なのだけれど、ぎりぎりに押しせまつた必要と、もう一つは、町会の人みんながひどくのぼせて愛国の気持になつてゐたから、何の働きもできない私のやうな女までも、何か好い仕事をさせてやらうといふ真面目な気持も交つてゐたらしく、最後に町会長が来て懇願した。お国のために、こちらのお庭に貯水池を掘らなければ、三丁目には他に適当な場所が一つもないと言つて、それを私が断れば、お国が困るのだといふやうな意味の話をした。では、私の家のほかにも個人の庭で貯水池をお掘りになつたところがございますかと訊くと「あります。山王二丁目のK伯爵邸の、御門から玄関にゆく中途のところに。もうこれは出来ました。今のところではK伯爵邸のほかは神社の空地ばかりです。これは一つ御承知を願つて、その代り私どものできる事で御便宜を計らうと思ひますが」ともう私が承知したやうに話しかけた。今の斜陽階級といふやうなさびしい言葉はまだ生れなかつたその頃の伯爵邸は町のほこりであつたから、町会長はたとへ貯水池一つでも私の家がその伯爵家や神社と軒並にとり扱かはれることを私のためにも非常な光栄だと思ひ込んでくれたのだつた。「平和になつた時に、その穴はどうなるのでせうか?」と、あはれな私は敗戦国にならないで日本に平和が来る日もあると思つて、訊いてみた。「それはむろん区役所の方で人夫をよこして元どほりに埋めるさうですから、後日の事は御心配なく」と言つた。かういふ話を私ひとりでがんばつて受けつけないでゐれば、一億一心といふマトーにはづれるのだから、町会から少しぐらゐ意地わるの事をされても仕方がなかつた、もうすぐそこに一つ別の問題が起りかけてゐた。それはだんだん家々が焼けて住宅がなくなつて来れば、焼け出された人たちをどこの空間にでも収容することになつてゐて、一畳半の場所に一人づつ、つまり十畳には七人位、八畳には六人、四畳半には三人入れるきまりださうで、私の家もその時にお役に立たせられるかもしれないと、一週間…