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コーヒー五千円
コーヒーごせんえん
作品ID49517
著者片山 広子
文字遣い新字旧仮名
底本 「燈火節」 月曜社
2004(平成16)年11月30日
入力者竹内美佐子
校正者林幸雄
公開 / 更新2009-10-01 / 2014-09-21
長さの目安約 2 ページ(500字/頁で計算)

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本文より




 洗足池のそばのHの家に泊りに行つて、Hの弟のSにたびたび会つた。Sは、南の方のある島から僅かに生き残つて帰つて来た少数の一人であつた。すつかり体の調子が悪くなつたので伊東温泉に行つたり東京に出て来たりして養生してゐる時で、彼はその時分しきりにおいしい物がたべたいので、魚や肉を買つてはHの家に持つて来て料理を頼んだ。さういふ時にゆき合せて私も御馳走になることがたびたびだつた。
 Sはわかい時から外国を廻り歩いた人なのでたいそうギヤラントで、よく私たちに調子を合せて話をしてくれた。中国に相当に長い月日を過して来たからSはよく中国の話をした。その時分上海が非常なインフレになつたので、紙幣をかばんに一ぱいつめ込んでレストーランに行き料理をたべる話なぞきかせた。「コーヒーが一杯五千円です」と彼が言つた。まだその時分私たちの東京ではコーヒーが一円ぐらゐなものであつたらう。だから五千円と聞いて眼がまはるやうで「コーヒーが五千円で、お料理が十万円ですか? 東京がそんなインフレになつたら、私たちは死ぬばかりですね。でも、死ぬのも大へんにかかりませう?」私が言ふと「百万円以上かかるでせうね。しかし、そんな心配をなさらんでも、衣裳をたくさんお持ちでせうから、必要の時それを一枚一枚売るんですね。大島の着物を一枚十万円ぐらゐに売れば、日本のインフレはどうにかしのげるでせう」Sはさう言つてくれた。
 その時からもう六七年の月日が経つてゐる。私の大島はまだ十万円には売れない。コーヒーも五十円あるひは百円位で飲むことが出来る。百万円のお金を使はないでも私が無事に眠ることができればこの上もない幸だと思ふ。それに上海でも、インフレのために市じうの人間が死んだといふ噂もまだ聞かない。



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