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俳諧師
はいかいし |
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作品ID | 49535 |
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著者 | 岡本 綺堂 Ⓦ |
文字遣い | 旧字旧仮名 |
底本 |
「修禅寺物語 正雪の二代目 他四篇」 岩波文庫、岩波書店 1952(昭和27)年11月25日 |
初出 | 「現代」1921(大正10)年10月 |
入力者 | 川山隆 |
校正者 | noriko saito |
公開 / 更新 | 2010-07-05 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 27 ページ(500字/頁で計算) |
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登場人物
俳諧師鬼貫
路通
鬼貫の娘お妙
左官の女房お留
[#改ページ]
元祿の末年、師走の雪ふる夕暮。浪花の町はづれ、俳諧師鬼貫のわび住居。軒かたむき縁朽ちたる破ら家にて、上の方には雪にたわみたる竹藪あり。下の方の入口には低き竹垣、小さき枝折戸あり。となりは墓場の心にて、矢はり低き竹垣をへだてゝ其内に雪の積りたる石塔又は卒堵婆などみゆ。雪しづかに降る。寺の木魚の音きこゆ。
(下の方より近所の女房お留、竹の子笠をかぶりて出づ。)
お留 あゝ、よく降ることだ。寒い、寒い。(枝折戸をあけて聲をかける。)もし、御めんなさい。お留守ですか。
お妙 はい、はい。
(奧より鬼貫の娘お妙、十七八歳の美しき娘、やつれたる姿にて、煤けたる行燈を點して出づ。)
お妙 おや、おかみさん。まあ、どうぞおあがり下さい。
お留 なに、こゝでいゝんですよ。(笠をぬぎて縁に腰をかける。)寒いぢやありませんか。
お妙 ほんたうにお寒いことでございます。(表を見る。)今夜も積ることでございませう。
お留 二日も降りつゞいた上に、まだ積られてはまつたく遣切れませんね。年の暮に斯う毎日降られては、どこでも隨分困ることでせうよ。
お妙 なにしろ、おあがりなさいませんか。そこはお寒うございますから。
(云ひながら下の方の爐を見かへれば、爐には火の氣がないので、お妙は困つた顏をしてゐる。)
お留 (それと察して。)いえ、もうお構ひなさるな。内の人もこの寒いので、持病の疝氣が起つたとか云つて、きのふも一昨日も仕事を休んでゐたのですけれど、もう數へ日になつて來て、お出入先から毎日の催促があるので、今日はたうとう朝から仕事に出て行つたんですよ。
お妙 この降るのに、まあ。
お留 尤も家のなかの繕ひ仕事ですから、雪が降つても出來るには出來るんですがね。それでも左官といふ商賣は辛いものだと滾し拔いてゐるんですよ。そりやまあ寒いときに泥いぢりをするんですから、どうで樂な仕事ぢやありませんけれど……。
お妙 (身にしみるやうに。)そりや全くでございますわねえ。
お留 さう云つても、我慢して稼いで貰はなければ、今日が過されませんからねえ。こちらのお父さんは今日はお休みですか。
お妙 いゝえ、今もおつしやる通り、やつぱり我慢して出て貰はなければなりませんので、今朝から稼ぎに出かけましたが、この雪では嘸ぞ難儀であらうと案じてをります。
お留 このお天氣ではほんたうにお困りでせうねえ。その代りにこちらの御商賣なぞは、かういふ日の方が却つて可いかもしれませんよ。
お妙 (愁はしげに。)どうでございませうか。
お留 なにしろ、もう歸つてお出でなさるだらうから、早く火でも熾して置いてあげたら何うです。外は隨分寒うござんすよ。
お妙 さうでございませうねえ。(再び爐の方を見かへる。)
お留 …