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年賀郵便
ねんがゆうびん
作品ID49537
著者岡本 綺堂
文字遣い新字新仮名
底本 「岡本綺堂随筆集」 岩波文庫、岩波書店
2007(平成19)年10月16日
初出「モダン日本」1935(昭和10)年1月号
入力者川山隆
校正者noriko saito
公開 / 更新2009-01-10 / 2014-09-21
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 新年の東京を見わたして、著るしく寂しいように感じられるのは、回礼者の減少である。もちろん今でも多少の回礼者を見ないことはないが、それは平日よりも幾分か人通りが多いぐらいの程度で、明治時代の十分の一、ないし二十分の一にも過ぎない。
 江戸時代のことは、故老の話に聴くだけであるが、自分の眼で視た明治の東京――その新年の賑いを今から振返ってみると、文字通りに隔世の感がある。三ヶ日は勿論であるが、七草を過ぎ、十日を過ぎる頃までの東京は、回礼者の往来で実に賑やかなものであった。
 明治の中頃までは、年賀郵便を発送するものはなかった。恭賀新年の郵便を送る先は、主に地方の親戚知人で、府下でもよほど辺鄙な不便な所に住んでいない限りは、郵便で回礼の義理を済ませるということはなかった。まして市内に住んでいる人々に対して、郵便で年頭の礼を述べるなどは、あるまじき事になっていたのであるから、総ての回礼者は下町から山の手、あるいは郡部にかけて、知人の戸別訪問をしなければならない。市内電車が初めて開通したのは明治三十六年の十一月であるが、それも半蔵門から数寄屋橋見附までと、神田美土代町から数寄屋橋までの二線に過ぎず、市内の全線が今日のように完備したのは大正の初年である。
 それであるから、人力車に乗れば格別、さもなければ徒歩のほかはない。正月は車代が高いのみならず、全市の車台の数も限られているのであるから、大抵の者は車に乗ることは出来ない。男も女も、老いたるも若きも、殆どみな徒歩である。今日ほどに人口が多くなかったにもせよ、東京に住むほどの者は一戸に少くも一人、多くは四人も五人も一度に出動するのであるから、往来の混雑は想像されるであろう。平生は人通りの少い屋敷町のようなところでも、春の初めには回礼者が袖をつらねてぞろぞろと通る。それが一種の奇観でもあり、また春らしい景色でもあった。
 日清戦争は明治二十七、八年であるが、二十八年の正月は戦時という遠慮から、回礼を年賀ハガキに換える者があった。それらが例になって、年賀ハガキがだんだんに行われて来た。明治三十三年十月から私製絵ハガキが許されて、年賀ハガキに種々の意匠を加えることが出来るようになったのも、年賀郵便の流行を助けることになって、年賀を郵便に換えるのを怪まなくなった。それがまた、明治三十七、八年の日露戦争以来いよいよ激増して、松の内の各郵便局は年賀郵便の整理に忙殺され、他の郵便事務は殆ど抛擲されてしまうような始末を招来したので、その混雑を防ぐために、明治三十九年の年末から年賀郵便特別扱いということを始めたのである。
 その以来、年賀郵便は年々に増加する。それに比例して回礼者は年々に減少した。それでも明治の末年までは昔の名残りをとどめて、新年の巷に回礼者のすがたを相当に見受けたのであるが、大正以後はめっきり廃れて、年末の郵便局には年…

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