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久保田米斎君の思い出
くぼたべいさいくんのおもいで |
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作品ID | 49552 |
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著者 | 岡本 綺堂 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「岡本綺堂随筆集」 岩波文庫、岩波書店 2007(平成19)年10月16日 |
初出 | 「伝記」1937(昭和12)年6月号 |
入力者 | 川山隆 |
校正者 | noriko saito |
公開 / 更新 | 2008-12-29 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 17 ページ(500字/頁で計算) |
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久保田米斎君の事に就て何か話せということですが、本職の画の方の事は私にはわかりませんから、主として芝居の方の事だけ御話するようになりましょう。これは最初に御断りしておきます。
たしかな事はいえませんが、私の知っている限りでは、米斎君がはじめて舞台装置をなすったのは、明治三十七年の四月に歌舞伎座で、森鴎外博士の『日蓮上人辻説法』というものを上演しました。その時分に御父さんの米僊先生がまだ御達者で、衣裳とか、鬘とかいう扮装の考証をなすった。その関係で息子さんの米斎君が、舞台装置をやったり、背景を画いたりなすったのです。今では局外の者が背景を画いたり、舞台装置をやったりすることも珍しくありませんが、その時分は芝居についている道具方がやるのが普通で、外の方がやるのは珍しかった。それでこの時も、大変新しいといって評判がよかったようです。これが米斎君が舞台装置なんぞをなさるようになったそもそものはじまりだろうと思っています。
その時分米斎君は、まだ三十前後位でしたろう。御承知の通り、三越の意匠部に勤めておいでなすったから、その方の仕事もお忙しかったんでしょうが、明治三十九年六月、歌舞伎座で『南都炎上』が上演された時に、やはり米斎君の舞台装置、その後しばらく間が切れて、明治四十三年の九月に明治座で、今の歌右衛門が新田義貞をした『太平記足羽合戦』という三幕物を私が書いた。その時分にやはり舞台装置や何かを米斎君に御願いしました。
それから翌年の二月に歌舞伎座で、今の六代目菊五郎が長谷川時雨さんの『桜吹雪』を上演しました。それをまた米斎君が背景、扮装等の考証をなすったのですが、狂言も評判がよかったし、舞台装置や何かも評判がよかった。先ずそれらがはじめで、明治四十四年以後は明治座で新作が出ると、いつも舞台装置を米斎君に御願いするようになりました。私の『修禅寺物語』『箕輪心中』なんていうものもこの年の作で、いずれも米斎君に御願いしたものです。
大正二年でしたか、東京の芝居というものが殆ど大阪の松竹に属することになりました。その時分から米斎君は松竹に関係されることになって、どこの劇場でも新作が出れば米斎君のところへ持込むという風でした。何しろ松竹系といえば、帝劇を除いて東京の有名な劇場は皆そうなのですから、一時は米斎君も彼方此方の芝居を掛持で、随分お忙しかったようです。三越の方も大正五年頃に御引きになって、それからは何だか画家というよりも、舞台装置専門家のような形でした。
ところが昭和二年頃から三年ばかり、強い神経衰弱で、その方の仕事を休んでおいででしたから、その間は已むを得ず、外の人に頼んでいましたが、この三年ばかり此方、また芝居の方を続けられることになって、現にこの二月の東劇に上演した私の『三井寺絵巻』なども、米斎君に御願いしました。米斎君としてはこれが最後だったわけ…