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秋の修善寺
あきのしゅぜんじ
作品ID49564
著者岡本 綺堂
文字遣い新字新仮名
底本 「岡本綺堂随筆集」 岩波文庫、岩波書店
2007(平成19)年10月16日
入力者川山隆
校正者noriko saito
公開 / 更新2008-12-29 / 2014-09-21
長さの目安約 11 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

     一

九月の末におくれ馳せの暑中休暇を得て、伊豆の修善寺温泉に浴し、養気館の新井方にとどまる。所作為のないままに、毎日こんなことを書く。
 二十六日。きのうは雨にふり暮らされて、宵から早く寝床に這入ったせいか、今朝は五時というのにもう眼が醒めた。よんどころなく煙草をくゆらしながら、襖にかいた墨絵の雁と相対すること約半時間。おちこちに鶏が勇ましく啼いて、庭の流れに家鴨も啼いている。水の音はひびくが雨の音はきこえない。
 六時、入浴。その途中に裏二階から見おろすと、台所口とも思われる流れの末に長さ一間ほどの蓮根を浸してあるのが眼についた。湯は菖蒲の湯で、伝説にいう源三位頼政の室菖蒲の前は豆州長岡に生れたので、頼政滅亡の後、かれは故郷に帰って河内村の禅長寺に身をよせていた。そのあいだに折々ここへ来て入浴したので、遂にその湯もあやめの名を呼ばれる事になったのであると。もし果してそうならば、猪早太ほどにもない雑兵葉武者のわれわれ風情が、遠慮なしに頭からざぶざぶ浴びるなどは、遠つ昔の上臈の手前、いささか恐れ多き次第だとも思った。おいおいに朝湯の客が這入って来て、「好い天気になって結構です」と口々にいう。なにさま外は晴れて水は澄んでいる。硝子戸越しに水中の魚の遊ぶのが鮮かにみえた。
 朝飯をすました後、例の範頼の墓に参詣した。墓は宿から西北へ五、六町、小山というところにある。稲田や芋畑のあいだを縫いながら、雨後のぬかるみを右へ幾曲りして登ってゆくと、その間には紅い彼岸花がおびただしく咲いていた。墓は思うにもまして哀れなものであった。片手でも押し倒せそうな小さい仮家で、柊や柘植などの下枝に掩われながら、南向きに寂しく立っていた。秋の虫は墓にのぼって頻りに鳴いていた。
 この時、この場合、何人も恍として鎌倉時代の人となるであろう。これを雨月物語式に綴れば、範頼の亡霊がここへ現れて、「汝、見よ。源氏の運も久しからじ」などと、恐ろしい呪いの声を放つところであろう。思いなしか、晴れた朝がまた陰って来た。
 拝し終って墓畔の茶店に休むと、おかみさんは大いに修善寺の繁昌を説き誇った。あながちに笑うべきでない。人情として土地自慢は無理もないことである。とかくするあいだに空は再び晴れた。きのうまではフランネルに袷羽織を着るほどであったが、晴れると俄にまた暑くなる。芭蕉翁は「木曾殿と背中あはせの寒さ哉」といったそうだが、わたしは蒲殿と背中あわせの暑さにおどろいて、羽織をぬぎに宿に帰ると、あたかも午前十時。
 午後東京へ送る書信二、三通を認めて、また入浴。欄干に倚って見あげると、東南に連なる塔の峰や観音山などが、きょうは俄かに押し寄せたように近く迫って、秋の青空が一層高く仰がれた。庭の柿の実はやや黄ばんで来た。真向うの下座敷では義太夫の三味線がきこえた。
 宿の主人が来て語る。主人は…

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