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![]() えっちゅうつるぎだけせんとうき |
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作品ID | 49579 |
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著者 | 柴崎 芳太郎 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「山の旅 明治・大正篇」 岩波文庫、岩波書店 2003(平成15)年9月17日 |
初出 | 「山岳 五の一」1910(明治43)年3月 |
入力者 | 川山隆 |
校正者 | 門田裕志 |
公開 / 更新 | 2010-03-07 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 7 ページ(500字/頁で計算) |
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越中の劍岳は、古来全く人跡未到の劍山として信ぜられ、今や足跡殆んど遍かられんとする日本アルプスにも、この山ばかりは、何人も手を著け得ざるものとして、愛山家の間に功名の目標となれるが如き感ありしに、会員田部隆次氏は、「劍山登攀冒険談」なる、昨四十年七月末『富山日報』に出でたる切抜を郵送せられ、かつ「先日山岳会第一大会に列席して諸先輩の講演、殊に志村氏の日本アルプスの話など、承わり、すこぶる面白く感動仕候、その中に、劍山登り不可能の話有之候に就きて、思い出し候間、御参考までに別紙切抜き送り候、……なお小生のその後、富山県庁の社寺課長より聞く所に拠れば、芦峅寺にては、劍山の道案内を知れる者有之候えども秘伝として、漫に人に伝えず、極めて高価の案内料を貪りて、稀に道案内をなせしことあるのみなりしが、今回の事にて、全くその株を奪われたる事になりしとか申候、この記事が動機となりて、今年より多くの登山者を出すを得ば、幸これに過ぎずと存候」と言える書翰を附して編輯者まで送付せられたり、(その後辻本満丸氏も、この記事の謄写を、他より獲て送付せられたり)聞く所によれば、『富山日報』のみならず、同県下の新聞にも大概出でたる由にて、劍岳を劍山と、新聞屋の無法書きは、白峰を白根、八ヶ岳を八ヶ峰などという筆法と同じく、おかしく感ぜらるれど、ともかくも登山史上特筆する価値あれば、左に全文を掲ぐ(K、K、)
余は三十六年頃より三角点測量に従事して居ますが、去四月二十四日東京を発して当県に来る事となりました、劍山に登らんと企てましたのは七月の二日で、先ず芦峅村に赴き人夫を雇おうと致しましたが、古来誰あって登ったという事のない危険山ですから、如何に高い給料を出して遣るからといっても、生命あっての物種、給料には易えられぬといって応ずる者がありません、しかし是非とも同山に三角測量を設けざるべからざる必要があるというのは、今日既に立山には一等測量標を、大日山と大窓山には二等測量標を建設してありますけれども、これだけでは十分な測量が出来ませんからで、技術上是非劍山に二等測量標の建設を必要とするのであります、前年来屡次登攀を試みましたが毎時登る事が出来ず失敗に帰しましたが、そのために今日では同地方の地図は全く空虚になって居る次第であります、これは我々の職務として遺憾に堪えぬ次第で、国家のため死を賭しても目的を達せねばならぬ訳であります、そこで七月十二日私は最も勇気ある
測夫 静岡県榛原郡上川根村 生田信(二二)
人夫 上新川郡大山村 山口久右衛門(三四)
人夫 同郡同村 宮本金作(三五)
人夫 同郡福沢村 南川吉次郎(二四)
人夫 氏名不詳
の四名を引率して登山の途に就き、同日は室堂より別山を超え、別山の北麓で渓を距る一里半ばかりの劍沢を称する処で幕…