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![]() りしりざんとそのしょくぶつ |
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作品ID | 49587 |
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著者 | 牧野 富太郎 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「山の旅 明治・大正篇」 岩波文庫、岩波書店 2003(平成15)年9月17日 |
初出 | 「山岳 一の二」1906(明治39)年6月 |
入力者 | 川山隆 |
校正者 | 門田裕志 |
公開 / 更新 | 2010-03-22 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 22 ページ(500字/頁で計算) |
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余が北見の国利尻島の利尻山に登ったのは、三十六年の八月である、農学士川上滝弥君が、数年前に数十日の間この山に立籠って、採集せられた結果を『植物学雑誌』に発表せられたのを、読んでから、折があったら自分も一度はこの山に採集に出かけたいと思っていたが、何分にも好機会がないので、思いながら久しく目的を達することが出来なかった、然るに山岳会の会員中で高山植物の採集と培養に熱心な加藤泰秋子爵が、この山の採集を思い立たるるとの話を聞いたので、もし同行が出来れば自分は大変に利益を得られるであろうと信じた所が、子爵もその当時は高山植物に充分の経験を持っておられなかった点もあるので、誰か同行をしてくれる人があればと捜しておられる所であったので、自分の希望は直に子爵の厚意に依て満足せしめられることが出来たのである、しかしその約束の条件として、自分はこの採集の紀行を書くことを引受けたことを第一に白状せねばならぬ、ところが俗にいう、鹿を逐う猟師は山を見ずで、植物の採集に夢中になっていると、山の形やら、途中の有様やら、どうも後から考えて見れば、筆を採って紀行文を作るということが、甚だ困難である、そこでいずれその内にと思いながら次第に年月は経過するし、益々記憶がぼんやりするし、今日となっては紀行を書くということは、絶対に出来悪いこととなってしまった、ところがこの事に当初から関係しておられる諸君は、頻りにこのことを余に責められるので、今更何とも致方がない、それで幸いに山岳会の雑誌に大略のことを載せてもろうて、自分の責を塞ぎ、かつは加藤子爵及びその他の諸君にもこの顛末を告げて謝したいと思う。
加藤子爵は北海道に開墾地を持ておられるので、其方に先きに出発せられて、余が東京を出発したのは七月二十六日であった、勿論東京からは同行者もないので、青森に着いて、一、二の人を訪問して、二十八日に同所を出発して、二十九日に室蘭に上陸した、この間は別に話すべきこともないが、同日の午後四時に紋別を過ぎて虻田の村に到着した、その翌三十日には、加藤子爵の開墾地で同じ虻田村の中の幌萠という所に着いて、加藤子爵に会合することが出来た、その日その翌日などは、その附近の植物を採集して、種々の獲物があったが、これも今度の話の主でないから、ズット略することにしよう。
八月三日に加藤子爵の一行と札幌に到着して、山形屋に宿を取った、ところがどういう加減であったか、自分が病気を発したので、一時は折角の思い立ちも、此所まで来て断念しなければならぬかと心配をしたけれども、思った程でもなく、翌日は殆んど全快をしてしまった、それから三日ほど過ぎて、六日の日であるが、札幌農学校の宮部博士と、加藤子爵とそれから子爵の随行の吉川真水という人と、幌向の泥炭地に採収を試みた、この日は山草家の木下友三郎君も同行せられることになった、ちょっと話が前…