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月夜のあとさき
つきよのあとさき
作品ID4959
著者津村 信夫
文字遣い新字新仮名
底本 「日本の名随筆19 秋」 作品社
1984(昭和59)年5月25日
入力者小鍛冶茂子
校正者林幸雄
公開 / 更新2003-06-05 / 2014-09-17
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

「戸隠では、蕈と岩魚に手打蕎麦」私がこのように手帖に書きつけたのは、善光寺の町で知人からきかされたのによる。
 岩魚は戸隠山中でもそう容易には口に這入らない。岩魚釣を専門にしている、さる農家の老人をひとり知っているが、その他に所謂素人で、ひそかに釣に出るような人もある。
 一日歩いて骨折ってみても、まずこんなものですよと云って、石油の空缶をのぞかせて呉れたのは、山の写真屋の隠居であった。空缶のなかには膚の美しい岩魚が、僅か二疋だけ泳いでいるにすぎなかった。
 水の綺麗なところを選ぶこの川魚は、いささか神秘に属するものかもしれない。
 足の悪い老人は、今朝から牧場のあたりから川に沿ってきたのだと云って、額の汗をふいていた。
「土地の人はこうして水を飲むのですよ」と云って、笹の葉を一枚舟の形に折って、私にも美しく澄んだ水を飲ませてくれた。
 秋には坊の食膳にかならず蕈の類が上される。ふかい秋のもの哀しい風味がある。
 晩夏の一日、私が奥社に詣でたとき、逆川のほとりの茶店に、新聞紙の上に一杯黄色い小さな蕈を干しているのを見た。傍にはグリムの物語にでも出てきそうな老婆がぼつねんと坐っていた。私が何と云う蕈かと尋ねると、これは楡の木に生えるものですと答えた。少し分けてくださいと頼むと、気持よく承知してくれた。
 老婆がもう店を閉じるから、よかったら里まで御一緒に行きましょうかと云う。老婆の里と云うのは、戸隠中社のことである。
 私が待っているからお婆さん早く支度をしなさいと云うと、品のいい顔立のその老婆は、いささかあざけるようにして云った。
「わしは足が早いからすぐに追いつきやす、一足さきにおいでなして」
 老人のくせにと私は意外に思った。山路をものの十分と行かぬうちに、後の方で声がする。振り返って見ると、老婆は店の品物でも入れたらしい大きな風呂敷包を肩にして、飛ぶように歩いてくる。木曾地方で軽サンと云う袴、あの立つけ袴をはいて、思いなしか腰のあたりもすっくりのびたようである。
「随分早かったね」と云うと、「いいえ、年するとね」そう答えて一向に平気そうである。
 店の番をしながら、暇をみて蕈を採る、採った蕈は中社まで持って帰り、あちらこちらの坊の厨房にわけてやるのだと云った。
 越後の海も一度見たいね、だがそれよりも孫が長野で教員をしているから、その方に行ってみたい、善光寺に行くには、余程朝早く立たないとね、そう云って話しかける。お婆さんのような丈夫な足なら、すぐ行かれるよと云うと、老婆はいかにも嬉しそうに相好を崩した。
 私の宿った坊では、月夜の晩にはきまって蕎麦を打った。
 蕎麦は更科と云うけれども、信州蕎麦のほんとに美味しいのはこの戸隠飯綱の原を中心とするあたりで、この地方に多い麻畑は刈りとってしまった後は、みんな蕎麦畑になるのである。
 山の月をみるためには、…

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