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可愛い山
かわいいやま
作品ID49593
著者石川 欣一
文字遣い新字新仮名
底本 「山の旅 大正・昭和篇」 岩波文庫、岩波書店
2003(平成15)年11月14日
入力者川山隆
校正者門田裕志
公開 / 更新2010-01-01 / 2015-07-19
長さの目安約 7 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 岩と土とからなる非情の山に、憎いとか可愛いとかいう人間の情をかけるのは、いささか変であるが、私は可愛くてならぬ山を一つもっている。もう十数年間、可愛い、可愛いと思っているのだから、男女の間ならばとっくに心中しているか、夫婦になっているかであろう。いつも登りたいと思いながら、まだその機会を得ぬ。今年の秋あたりには、あるいは行くことが出来るかも知れぬ。もっとも山には、登って見て初めて好きになるのと、麓から見た方がいいのとある。私が可愛いと思っている山も、登って見たら存外いやになるかも知れぬ。登って見て、詰らなかったら、下りて来て麓から見ればよい。
 この山、その名を雨飾山といい、標高一九六三米。信州の北境、北小谷、中土の両村が越後の根知村に接するところに存在する。元より大して高い山ではないし、またいわゆる日本アルプスの主脈とは離れているので、知っている人はすくなかろう。あまり人の知らぬ山を持って来て喋々するのはすこしいやみだが、私としてはこの山が妙に好きなので、しかもその好きになりようが、英語で言えば Love at first sight であり、日本語で言えば一目ぼれなのである。
 たしか高等学校から大学へうつる途中の夏休であったと思う。あたり前ならば大学生になれた悦しさに角帽をかぶって歩いてもいい時であるが、私は何んだか世の中が面白くなくって困った。あの年頃の青年に有勝ちの、妙な神経衰弱的厭世観に捕われていたのであろう。その前の年までは盛に山を歩いていたのだが、この夏休には、とても山に登る元気がない。それでもとにかく大町まで出かけた。気持が進んだら、鹿島槍にでも行って見る気であった。
 大町では何をしていたか、はっきり覚えていない。大方、ゴロゴロしていたのであろう。木崎湖あたりへ遊びに行ったような気もするが、たしかではない。
 ある日――もう八月もなかばを過ぎていたと覚えている――慎太郎さんと東京のM呉服店のMさんと私とは、どこをどうしたものか、小林区署のお役人と四人で白馬を登っていた。如何にも妙な話だが、そこまでの時の経過を忘れてしまったのである。Mさんは最初の登山というので元気がよかった。お役人は中老で、おまけに職を帯びて登山するのだから、大して元気がよくもなかった。慎太郎さんと私とは、もうそれまでに白馬に登っていたからばかりでなく、何だか悄気ていた。少くとも私は悄気ていた。慎太郎さんはお嫁さんを貰ったばかりだから、家に帰りたかったのかも知れぬ。
 一行四人に人夫や案内を加えて、何人になったか、とにかく四谷から入って、ボコボコと歩いた。そして白馬尻で雪渓の水を徒渉する時、私のすぐ前にいた役人が、足をすべらしてスポンと水に落ちた。流れが急なので、岩の下は深い。ガブッ! と水を飲んだであろう。クルクルと廻って流れて行く。私は夢中になってこっち岸の岩を三つ…

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