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潮干狩
しおひがり
作品ID4960
著者原 民喜
文字遣い新字旧仮名
底本 「定本原民喜全集 I」 青土社
1978(昭和53)年8月1日
初出「文芸汎論」1939(昭和14)年 9月号
入力者海老根勲
校正者Juki
公開 / 更新2004-10-09 / 2014-09-18
長さの目安約 14 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 前の晩、雄二は母と一緒に風呂桶につかつてゐると、白い湯気の立昇るお湯の面に、柱のランプの火影が揺れて、ふとK橋のことを思ひ出した。恰度、夜の橋の上から両岸の火影が水に映つてゐるのを眺めてゐるやうな気持だつた。明日は父に連れられて、皆で潮干狩に行くのだつた。雄二はまだ船で川を下つたことはなかつた。床に這入つてからも、なかなか睡れなかつた。寝床がそのまま船になつて、闇のなかを進んで行く。だ、だ、だ、だ、と物凄い音がして、雄二は何度も目を覚した。
 朝になると、雄二は積木細工をして縁側で遊んだ。花のついた石榴の梢に麗かな日が射して、いい天気だつた。昼餉が済むと、いよいよ皆は出発の支度をした。貝掻、叉手などを貴磨と大吉は提げ、雄二は小さなバケツを持つた。母と姉は着物を着替へてゐて少し遅れて出て来たが、門口で皆が揃ふと父はK橋の方へ歩き出した。太陽が恰度路の真上にあつて風はなかつた。大吉と貴磨は父を追越すと、洋館建の写真屋の角を廻つて、勝手に進んで行くのだつた。雄二は母と姉に[#挿絵]まれてゆつくり歩いてゐたが、兄達が間違つた方角へ行くのではないかと心配した。すると、父も写真屋の角を廻つてしまつた。K橋へ行くのではなささうだつた。やがて雄二達も角を廻つて、小路へ出た。そこは片方に半間幅の溝があつて、溝に添つて、柳の木が遠くまで続いてゐた。
 片方の家には、板の橋や石の橋があつた。溝の泥水のなかに一ところ石油がギラギラ五色に輝いてゐるのを雄二は歩きながら見とれた。太い柳の幹からは、指のやうな草がぶらさがつてゐた。片方は塀を廻らした家や格子のある家が並んでゐてそのなかに一軒カーキー色の日覆を張つた雑貨店があつた。店先の置座に狆が眼を光らしながら雄二を見送つてゐた。ふと向を見ると、何時も雄二の家の前を通る気違の女がやつて来るところだつた。綿の襤褸を着ぶくれて、懐から麦藁を出して編みながら、突出た下唇で何かぶつぶつ呟いてゐる。兄達はもうその気違と擦違つてしまつた。大吉は態と振返つて雄二の方を眺めた。雄二は菊子に手を引かれてゐたが、姉の汗ばんだ掌にこの時心持力が加はつた。そして無事で気違と擦違つた。
 柳の並木が杜切れて、砂利を敷いた処に来ると、雄二は下駄の下に鳴る砂利の音で元気づいた。路はT字型に行塞つて、左の角を廻るとS橋の袂に出るのだつた。少し盛上つた坂の上にS橋の欄杆が見えてゐた。大吉と貴磨とは橋の袂に立留まつて、こちらを見てゐた。兄達の後には青い空が拡がり、橋や川のさざめきがそこから洩れて来るやうに思へた。風がまつすぐに雄二の顔へあたり出した。橋の袂の釣道具を売る硝子戸の店の前で父は立留まつた。
 やがて雄二達も父の処へ来た。その店のすぐ横が石段になつてゐて、川の水が見下せた。父がどんどん石段を下つて行くと、貴磨も大吉もそれに続いた。雄二には可也の幅の石段で、姉の手…

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