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雲雀病院
ひばりびょういん
作品ID4961
著者原 民喜
文字遣い新字旧仮名
底本 「定本原民喜全集 1」 青土社
1978(昭和53)年8月1日
初出「文芸汎論」1941(昭和16)年6月号
入力者海老根勲
校正者Juki
公開 / 更新2005-01-04 / 2014-09-18
長さの目安約 15 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 銀の鈴を振りながら、二頭の小山羊は花やリボンで飾られてゐる大きな乳母車を牽いて行つた。その後には、青い服を※[#「纏のまだれに代えてがんだれ」、421-8]つた鳩のやうな婦人がもの静かに従いて歩いた。むかうの峰には乳白色の靄がかかつてゐたが、こちらの空は真青に潤んでゐた。澄んだ空気の中に草の芽や花の蕾の匂ひが漾つて、しげみの中では鶯が啼いてゐる。
 車のバネの緩い動揺や、鈴の音に、すやすやと睡つてゐた空二は、ふと眼を見開いた。それから、車のすぐ側に見識らぬ婦人がゐるのを、ぼんやり見てゐた。が、やがて再び目蓋を閉ぢてしまつた。しばらくすると、空二は唇をむちやむちや動かしながら両手を伸ばした。そして今度はほんとうに目が覚めたらしかつた。彼は何時ものやうに煙草を吸はうと思つて、無意識にあたりを手探つた。が、彼の指さきに掴まつたものはキヤラメルの函であつた。彼はつまらなさうにその函を放つた。それから再び狭い車内を探してゐると、漫画の本が出て来た。彼はそれを膝の上に展げてちよつと見入つてゐたが、すぐに、にやにや笑ひだした。それから、ふと見識らぬ婦人が側にゐるのを思ひ出した。すると彼は妙に気恥しくなつた。空二は漫画の本を横に隠して、顔を婦人の方へ向けた。空二の眼に好色的な輝きが漲つて来たが、婦人は清浄無垢の表情をしてゐる。
 いささか勝手が違ふので空二は不審げにその女を視凝めた。視てゐるうちに彼の心は和んで、婦人の善良な魂がほほゑみかけて来るやうに思へた。空二は苦々しげに眉を顰めた。すると、今迄車の柄に手を掛けながら心もすずろに眩しさうな顔つきで歩いてゐた婦人が、はじめて乳母車の中の空二に眼を注いだ。
「お目ざめになりました、空二さん」
 婦人のその声は幼児を恍惚とさすやうな響をもつてゐた。空二はかすかに聞き憶えのある声のやうにおもへたが、誰だつたのか思ひ出せなかつた。そして、今この女から嬰児をあやすやうな態度をとられたことが、少し気に喰はなかつた。
 空二は露骨に不快な表情を作るため唇をゆがめようとした。と、歪みかけた唇から、たらたらとよだれが零れた。はつとして襟許を視ると、彼の首にはちやんとビロウドの縁のついた涎掛がつけてあつた。そればかりではなかつた。彼は緑と黄の毛糸の子供服を着せられてゐるのに気附いた。すると、空二は今にも背髄の方から一種の痙攣が始まりさうな気がした。彼はその車から飛上つて、滅茶苦茶に暴れ出したい衝動が蠢いた。彼の眼は青く戦いた。しかし、彼の体のうちに始まりかけた痙攣はピクリと彼の指さきを戦かせただけで、やがて曖昧に消えて行つた。彼はぐつたりとクツシヨンの方へ頭を埋めた。
「まだお眼がよく覚められないのですね」と、婦人は面白さうに彼の顔を見守つて笑つた。
「ああ」と、空二は奇妙な声を出して唸つた。いつもの自分の声とはまるで違つてゐるやうであつた…

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