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元八まん
もとはちまん
作品ID49667
著者永井 荷風
文字遣い新字新仮名
底本 「荷風随筆集(上)」 岩波文庫、岩波書店
1986(昭和61)年9月16日
入力者門田裕志
校正者阿部哲也
公開 / 更新2010-04-11 / 2014-09-21
長さの目安約 9 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 偶然のよろこびは期待した喜びにまさることは、わたくしばかりではなく誰も皆そうであろう。
 わたくしが砂町の南端に残っている元八幡宮の古祠を枯蘆のなかにたずね当てたのは全く偶然であった。始めからこれを尋ねようと思立って杖を曳いたのではない。漫歩の途次、思いかけずその処に行き当ったので、不意のよろこびと、突然の印象とは思立って尋ねたよりも遥に深刻であった。しかもそれは冬の日の暮れかかった時で、目に入るものは蒼茫たる暮烟につつまれて判然としていなかったのも、印象の深かった所以であろう。
 或日わたくしは洲崎から木場を歩みつくして、十間川にかかった新しい橋をわたった。橋の欄には豊砂橋としてあった。橋向には広漠たる空地がひろがっていて、セメントのまだ生々しい一条の新開道路が、真直に走っていたが、行手には雲の影より外に目に入るものはない。わたくしはその日地図を持って来なかったので、この新道路はどこへ出るものやら更に見当がつかなかったのであるが、しかしその果はいずれ放水路の堤に行き当っているにちがいない。堤に出さえすれば位置も方角も自然にわかるはずだと考え、案内知らぬ道だけにかえって興味を覚え、目当もなく歩いて行くことにしたのである。
 道路は市中の昭和道路などよりも一層ひろいように思われ、両側には歩道が設けられていたが、ところどころ会社らしいセメント造の建物と亜鉛板で囲った小工場が散在しているばかりで、人家もなく、人通りもない。道の左右にひろがっている空地は道路よりも地盤が低いので、歩いて行く中、突然横から吹きつける風に帽子を取られそうな時などは、道を行くのではなく、長い橋をわたっているような気がした。
 道が爪先き上りになった。見れば鉄道線路の土手を越すのである。鉄道線路は二筋とも錆びているので、滅多に車の通ることもないらしい。また踏切の板も渡してはない。線路の上に立つと、見渡すかぎり、自分より高いものはないような気がして、四方の眺望は悉く眼下に横わっているが、しかし海や川が見えるでもなく、砂漠のような埋立地や空地のところどころに汚い長屋建の人家がごたごたに寄集ってはまた途絶えている光景は、何となく知らぬ国の村落を望むような心持である。遥のかなたに小名木川の瓦斯タンクらしいものが見え、また反対の方向には村落のような人家の尽きるあたりに、草も木もない黄色の岡が、孤島のように空地の上に突起しているのが見え、その麓をいかにも急設したらしい電車線路が走っている。と見れば、わたくしの立っている土手のすぐ下には、古板で囲った小屋が二、三軒あって、スエータをきた男が裸馬に飼葉を与えている。その側には朝鮮人の女が物を洗っている。わたくしは鉄道線路を越しながら、このあたりの光景を名づけて何というべきものかと考えた。かつて何もなかった処であるから、荒廃でもなく破壊でもない。放棄せられた…

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