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矢立のちび筆
やたてのちびふで
作品ID49668
著者永井 荷風
文字遣い新字旧仮名
底本 「荷風随筆集(下)〔全2冊〕」 岩波文庫、岩波書店
1986(昭和61)年11月17日
入力者門田裕志
校正者阿部哲也
公開 / 更新2010-04-21 / 2021-02-04
長さの目安約 7 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

     或人に答ふる文

 思へば千九百七、八年の頃のことなり。われ多年の宿望を遂げ得て初めて巴里を見し時は、明くる日を待たで死すとも更に怨む処なしと思ひき。泰西諸詩星の呼吸する同じき都の空気をばわれも今は同じく吸ふなり。同じき街の敷石をば響も同じくわれも今は踏むなり。世界の美妓名媛の摘む花われもまた野に行かば同じくこれを摘むことを得ん。われはヴェルレエヌの如くにカッフェーの盃をあげレニエーの如くに古城を歩み、ドーデの如くにセーヌの水を眺め、コッペエの如くに舞蹈場に入り、ゴーチエーの如くに画廊を徘徊しミュッセの如くにしばしば泣きけり。かくてわれは世に最も幸福なる詩人となりぬ。如何となればわれは崇め祭るべき偶像あまた持つ事を得たればなり。十七世紀以降二十世紀に至る仏蘭西文芸史上にその名を掲げられしものは悉くわが神なりけり。然れどもわれは仏蘭西語にて物書く事能はざりしかばやむなく日本語を以てわが感想を述べ綴りき。この弱点は忽ち怪我の功名となりぬ。もしわれにして恣に仏蘭西文をものし得たらんには、軽々しくジャン・モレアスを学びて外人にして仏蘭西文壇に出るも豈難からんやなど、法外の野望を起したらんも知るべからず。然れども幸なる哉、わが西洋崇拝の詩作は尽く日本文となりて日本の文壇に出づるや、当時文壇の風潮と合致する処ありければ忽ち虚名を贏ち得たりき。けだし偶然の事なり。
 歳月匆々十歳に近し。われ今当時の事を顧れば茫として夢の如しといはんのみ。如何となればわれまた当時の如き感情を以て物を見る事能はざればなり。物あるひは同じかるべきも心は全く然らず。われは当初日本の風景及び社会に対しても勉めてピエール・ロッチの如き放浪詩人の心を以てこれを観る事を得たりしが、気候、風土、衣服、食品、住居の類は先づわが肉体を冒して漸次にわが感覚を日本化せしむると共に、当代の政治並に社会の状態は事あるごとに宛然われをして封建時代にあるの思あらしめき。もし封建の語を忌まば封建の美点を去りてその悪弊をのみ保存せし劣等なる平民時代といはんこそ更に妥当なるべけれ。
 空想は漸次に破壊せられぬ。われは或一派の詩人の如く銀座通の燈火を以て直ちにブウルヴァールの賑に比し帝国劇場を以てオペラになぞらへ日比谷の公園を取りてルュキザンブルに擬するが如き誇張と仮設を喜ぶ事能はずなりぬ。そは江戸時代の漢学者が文字の快感よりしてお茶の水を茗渓と呼び新宿を甲駅または峡駅と書したるよりも更に意味なき事たるべし。われは舶来の葡萄酒と葉巻の甚高価なるを知ると共に、蓄音機のワグネルと写真板のゴオガンのみにては、到底西洋の新芸術を論ずる事能はざるに心付きぬ。日本の文学者の事業は舶来新着の雑誌新聞に出でたる小説評論を読む事のみには限らざるべし。
 われは西洋の小説を読みその作家の生活を想像し飜つてわが日本の現在を目撃する時常に不可…

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