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矢はずぐさ
やはずぐさ |
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作品ID | 49669 |
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著者 | 永井 荷風 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「荷風随筆集(下)」 岩波文庫、岩波書店 1986(昭和61)年11月17日 |
入力者 | 門田裕志 |
校正者 | 米田 |
公開 / 更新 | 2010-10-06 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 30 ページ(500字/頁で計算) |
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一
『矢筈草』と題しておもひ出るままにおのが身の古疵かたり出でて筆とる家業の責ふさがばや。
二
さる頃も或人の戯にわれを捉へて詰りたまひけるは今の世に小説家といふものほど仕合せなるはなし。昼の日中も誰憚るおそれもなく茶屋小屋に出入りして女に戯れ遊ぶこと、これのみにても堅気の若きものの目には羨しきかぎりなるべきに、世の常のものなれば強ひても包みかくすべき身の恥身の不始末、乱行狼藉勝手次第のたはけをば尾に鰭添へて大袈裟にかき立つれば世の人これを読みて打興じ遂にはほめたたへて先生と敬ふ。実にや人倫五常の道に背きてかへつて世に迎へられ人に敬はるる卿らが渡世こそ目出度けれ。かく戯れたまひし人もし深き心ありてのことならんか。この『矢筈草』目にせば遂にはまことに憤りたまふべし。『矢筈草』とは過つる年わが大久保の家にありける八重といふ妓の事を記すものなれば。
八重その頃は家の妻となり朝餉夕餉の仕度はおろか、聊かの暇あればわが心付かざる中に机の塵を払ひ硯を清め筆を洗ひ、あるいは蘭の鉢物の虫を取り、あるいは古書の綴糸の切れしをつくろふなど、余所の見る目もいと殊勝に立働きてゐたりしが、故あつて再び身を新橋の教坊に置き藤間某と名乗りて児女に歌舞を教ゆ。浄瑠璃の言葉に琴三味線の指南して「後家の操も立つ月日」と。八重かくてその身の晩節を全うせんとするの心か。我不レ知。
三
そもそも小説家のおのれが身の上にかかはる事どもそのままに書綴りて一篇の物語となすこと西洋にては十九世紀の始つ方より漸く世に行はれ、ロマンペルソネルなどと称へられて今にすたれず。即ちゲーテが作『若きウェルテルの愁』、シャトオブリヤンが作『ルネエ』の類なり。わが国にては紅葉山人が『青葡萄』なぞをやその権輿とすべきか。近き頃森田草平が『煤煙』小粟風葉が『耽溺』なぞ殊の外世に迎へられしよりこの体を取れる名篇佳什漸く数ふるに遑なからんとす。わけても最近の『文芸倶楽部』(大正四年十一月号)に出でし江見水蔭が『水さび』と題せし一篇の如き我身には取分けて興深し。されば我今更となりて八重にかかはる我身のことを種として長き一篇の小説を編み出さん事かへつてたやすき業ならず。小説を綴らんには是非にも篇中人物の性格を究め物語の筋道もあらかじめは定め置く要あり。かかる苦心は近頃病多く気力乏しきわが身の堪ふる処ならねば、むしろ随筆の気儘なる体裁をかるに如かじとてかくは取留めもなく書出したり。小説たるも随筆たるも旨とする処は男女の仲のいきさつを写すなり。客と芸者の悶着を語るなり。亭主と女房の喧嘩犬も喰はぬ話をするなり。犬は喰はねど煩悩の何とやら血気の方々これを読みたまひてその人もし殿方ならばお客となりて芸者を見ん時、その人もし芸者衆ならばお座敷かかりてお客の前に出でん時、前車の覆轍以てそれぞれ身の用心ともなしたまはばこの一篇の『矢筈…