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洋服論
ようふくろん
作品ID49671
著者永井 荷風
文字遣い新字旧仮名
底本 「荷風随筆集(下)〔全2冊〕」 岩波文庫、岩波書店
1986(昭和61)年11月17日
入力者門田裕志
校正者阿部哲也
公開 / 更新2010-04-11 / 2021-02-04
長さの目安約 11 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

○日本人そもそも洋服の着始めは旧幕府仏蘭西式歩兵の制服にやあらん。その頃膝取マンテルなぞと呼びたる由なり。維新の後岩倉公西洋諸国を漫遊し文武官の礼服を定められ、上等の役人は文官も洋服を着て馬に乗ることとなりぬ。日本にて洋服は役人と軍人との表向きに着用するものたる事今においてなほ然り。
○予が父は初め新銭座の福沢塾にて洋学を修め明治四年亜墨利加に留学し帰朝の後官員となりし人にて、一時はなかなかの西洋崇拝家なりけり。予の生れし頃(明治十二年なり)先考は十畳の居間に椅子卓子を据ゑ、冬はストオブに石炭を焚きてをられたり。役所より帰宅の後は洋服の上衣を脱ぎ海老茶色のスモーキングヂャケットに着換へ、英国風の大きなるパイプを啣へて読書してをられたり。雨中は靴の上に更に大きなる木製の底つけたる長靴をはきて出勤せられたり。予をさな心に父上は不思議なる物あまた所持せらるる事よと思ひしことも数なりき。
○予が家にてはその頃既にテーブルの上に白き布をかけ、家庭風の西洋料理を食しゐたり。或年の夏先考に伴はれ入谷の里に朝顔見ての帰り道、始めて上野の精養軒に入りしに西洋料理を出したるを見て、世間にてもわが家と同じく西洋料理を作るものあるにやと、かへつて奇異の思をなしたる事もありけり。
○予六歳にして始めてお茶の水の幼稚園に行きける頃は、世間一般に西洋崇拝の風甚熾にして、かの丸の内鹿鳴館にては夜会の催しあり。女も洋服着て踊りたるほどなり。されば予も幼稚園には洋服着せられて通はされたり。これ予の始めて洋服なるもの着たる時なれど、如何なる形のものなりしや能くは記憶せず。小学校へ赴く頃には海軍服に半ズボンはきたる事は家にありし写真にて覚えたり。襟より後は肩を蔽ふほどに広く折返したるカラーをつけ幅広きリボンを胸元にて蝶結びにしたり。帽子は広き鍔ありて鉢巻のリボンを後に垂らしたり。ズボンは中学校に入り十五、六歳にいたるまで必半ズボンなりき。その頃予の通学せし一橋の中学校にては夙に制服の規定ありしかば、上衣だけは立襟のものを着たれど長ズボンは小児の穿つべきものならずとて、予はいつも半ズボンなりしかば、この事一校の評判になりて大勢のものより常に冷笑せられたり。頭髪も予は十二、三歳頃までは西洋人の小児の如く長目に刈りていたり。さればこれも学校にては人々の目につきやすく異人の児よとて笑はれたりしなり。
○つい愚にもつかぬ回旧談にのみ耽りて申訳なし。さて当今大正年間諸人の洋服姿を拝見して聊か愚論を陳ぶべし。
○日露戦争この方十年来到処予の目につくは軍人ともつかず学生ともつかぬ一種の制服姿なり。市中電車の雇人、鉄道院の役人、軍人の馬丁。銀行会社の小使なぞ、これらの者殆ど学生と混同して一々その帽子またはボタンの徽章にでも注意せざれば、何が何やら区別しがたき有様なり。以前は立襟の制服は学生とのみ、きまりてゐたりし故…

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