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癩病やみの話
らいびょうやみのはなし |
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作品ID | 49705 |
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原題 | RECIT DU LEPREUX |
著者 | シュウォッブ マルセル Ⓦ |
翻訳者 | 上田 敏 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「定本 上田敏全集 第一巻」 教育出版センター 1978(昭和53)年7月25日 |
初出 | 「三田文学 第四巻第三号」1913(大正2)年3月 |
入力者 | ロクス・ソルス |
校正者 | Juki |
公開 / 更新 | 2009-06-12 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 4 ページ(500字/頁で計算) |
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あたしの申上げる事を合点なさりたくば、まづ、ひとつかういふ事を御承知願ひたい。白の頭巾に頭を裹んで、堅い木札をかた、かた、いはせる奴めで御座るぞ。顔は今どんなだか知らぬ。手を見ると竦とする。鱗のある鉛色の生物のやうに、眼の前にそれが動いてゐる。噫、切つて了ひたい。此手の触つた所も忌はしい。紅い木の実を摘取ると、すぐそれが汚れて了ひ、ちよいと草木の根を穿つても、この手が付くと凋んでゆく。「世の人々の御主よ、われをも拯け給へ。」此世の御扶も蒼白いこのわが罪業は贖ひ給はなかつた。わが身は甦生の日まで忘られてゐる。冷たい月の光に射されて、人目に掛らぬ石の中に封込められた蟾蜍の如く、わが身は醜い鉱皮の下に押し籠められてゐる時、ほかの人たちは清浄な肉身で上天するのだらう。「世の人々の御主よ、われをも罪無くなし給へ、この癩病に病む者を。」噫、淋しい、あゝ、恐い。歯だけに、生来の白い色が残つてゐる。獣も恐がつて近づかず、わが魂も逃げたがつてゐる。御扶手、此世を救ひ給うてより、今年まで一千二百十二年になるが、このあたしにはお拯が無い。主を貫通した血染の槍がこの身に触らないのである。事に依つたら、世の人たちの有つてゐる主の御血汐で、この身が癒るかも知れぬ。血を思ふことも度々だ。この歯なら咬付ける。真白の歯だ。主はあたしに下さらなかつたので、主に属する者を捉へたくなつて堪らない。さてこそ、あたしは、[#挿絵]ンドオムの地から、このロアアルの森へ下りて来る幼児たちを跟けて来た。幼児たちは皆十字架を背負つて、主の君に仕へ奉る。してみるとその体も主の御体、あたしに分けて下さらなかつたその御体だ。地上にあつて、この蒼白い苦患に取巻かれてゐるわが身は、今この無垢の血を有つてゐる主の幼児の頸に血を吸取つてやらうと、こゝまで見張つて来たのである。「恐の日に当りて、わが肉新なるべし。」衆の後から、髪の毛の赤い、血色の好い児が一人通る。こいつに眼を付けて置いたのだから、急に飛付いてやつた。この気味の悪い手で、その口を抑へた。粗末な布の下衣しか着てゐないで、足には何も履かず、眼は落着いてゐて、別に驚いた風も無く、こちらを見上げた。泣出しもしまいと知つたから、久しぶりで、こちらも人間の声が聞きたくなつて、口元の手を離してやると、あとを拭きさうにもしないのだ。眼は他を見てゐるやうだ。
――おまへ、何て名だと質いてみた。
――ティウトンのヨハンネスと答へる其声が透きとほるやうで、聞いてゐて、心持が好くなる。
――何処へ行くんだと重ねて質いた。さうすると、返事をした。
――耶路撒冷へ行くのです、聖地を恢復に行くのです。
そこで、あたしは失笑して質いて見た。
――耶路撒冷つて何処だい。
答へていふには、
――知りません。
また質いて見た。
――耶路撒冷つて、一体、何だい。
答へていふに…