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真理を求めて
しんりをもとめて |
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作品ID | 49711 |
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副題 | ――平和祭に寄す ――へいわさいによす |
著者 | 中井 正一 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「中井正一全集 第四巻 文化と集団の論理」 美術出版社 1981(昭和56)年5月25日 |
初出 | 「中国新聞」1951(昭和26)年8月 |
入力者 | 鈴木厚司 |
校正者 | 染川隆俊 |
公開 / 更新 | 2009-10-14 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 2 ページ(500字/頁で計算) |
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ロマン・ロランは第一次大戦にあたって彼の「戦いを超えて」の中で次のようにいっている。
「真理を求めようとはしないで、それを所有していると称するものと議論することは不可能である。ドイツが日の光りに対して防御壁をつくっている自信の厚い壁を破ることは、今のところ、いかなる精神の力にとっても可能ではない。」
ドイツの多くの哲学者が、すべて背骨を失って、戦の中に巻きこまれたあのとき、そして、フランスの好戦論にこびたあのとき、ロランはひとりスイスに逃れて、痛切な孤独の中に吐いたのがこの言葉である。真理を求めようとしないで、それを所有していると称する者たちの間でのみ戦争は巻き起こされるのである。
真理が何であるかを、ひたすら求め抜く心が、地球に拡がるときにのみ、人々の上に美しい平和がくるのである。
そして、それは醜いことだろうか。決してそうではない。
それは卑きょうなことだろうか。否、決してそうではない。
それは弱いもののできることだろうか。否、その反対である。
子供たちが、手離しで自転車を走らせてあそぶ遊びが外国にはある。
その中の一人の子供が、たまりかねてハンドルに手をかけると、皆で、
「卑きょう者!」
と呼ぶ。そして車はなおも狂って走るのである。
しかし、ほんとうは、あえて、このハンドルに手を出す子供が「勇気があるもの」であり、手を出さない子供たちが、むしろ、ほんとうは卑きょう者なのである。
*『中国新聞』一九五一年八月