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目に見えない怪物
めにみえないかいぶつ
作品ID49753
副題―能の現代化
―のうのげんだいか
著者加藤 道夫
文字遣い旧字旧仮名
底本 「加藤道夫全集(全一卷)」 新潮社
1955(昭和30)年9月30日
入力者鈴木厚司
校正者きゅうり
公開 / 更新2019-12-22 / 2019-11-24
長さの目安約 3 ページ(500字/頁で計算)

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本文より


 戰後になつてから餘り見なくなつてしまつたが、學生時代には僕も隨分足繁く能樂堂に通つたものだ。併し、正直に言ふと僕自身「能」の世界に入り込める樣になるには大分時間がかゝつた樣である。初めのうちは退屈で居眠りをしたりした覺えもある。ところが次第に「能」の魂みたいなものが分つて來た。いゝ能とつまらない能の區別がはつきり分つて來た。能も結局、曲と演者で、この二つがぴつたり息が合つた時初めて醍醐味が出て來る。何か「目に見えない怪物」の樣に異樣な實在感が舞臺一杯にみなぎつて、我々の心を打つ。曲は矢張り世阿彌のものにそれが一番あると思つた。演者で好きなのは亡くなつた万三郎師と現在では六平太師である。今でも好きな人がいゝ曲を演ると時々見に行くが、藝の熟さない人のをみると同じ曲でも全然空ろな感じで、退屈してしまふ。
 何もない舞臺で、きまりきつた展開法で、單調な謠ひ方と囃し方だけで演る極めて原始的な演劇形式だから、實に率直に作者と演者の内面が舞臺に反映する。内面の充實のない曲はどんなに迂餘曲折があつても面白くない。同樣にどんないゝ曲でも演者の意識が十分充實してゐないと「目に見えない怪物」は姿を現さない。此處では想像力が純粹にその役目を果すのだ。だから觀るものにも演ずるものにも能舞臺程率直な試驗臺はない。
 文學的にみても、謠曲の語彙などさして廣汎なものではないのに、同じ樣な言葉を使つて同じ節[#挿絵]しで謠つて、はつきりと何物かが生きてゐる曲と、何物も生きてゐない曲とがある。(前者の方が寧ろ稀であるが。その生きてゐるものには今の世の我々も感動出來るのだから、能は現代でも生きてゐると言へるだらう。唯、現代に於てその生きてゐるものをつかまへるには、能舞臺そのものが餘りにも我々の生活から遠いのであり、能の形式そのものが餘りにも現代的でないのである。
「能」の現代化と言ふことは、能舞臺からあの「目に見えない怪物」を感じとつた人なら誰しも考へることだらうが、唯さう言ふ話が出ると、「能」が餘りにも貴重な遺物の樣に見えて來ることと、そのつかみとつた「本質的なもの」が餘りにも純粹なので、皆怖氣を感じて尻ごみしてしまふらしいのだ。三島君は怖れることなくこの實踐にのり出した最初の勇敢な人である。彼は先づ「能」のシチュエーションを現代風俗の中に移し植ゑることから始めた。それもひとつの方法であらう。彼の「邯鄲」や「綾の鼓」や「卒塔婆小町」は極めて我々に身近な風俗を着て展開される。さうなれば能より面白くなること請合ひだが、それだけに危惧も多い。何故なら、さう言ふ現代の風俗の中に「純粹の怪物」を見付け出すことは尚一層困難なことだからである。



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