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旧聞日本橋
きゅうぶんにほんばし |
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作品ID | 4977 |
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副題 | 17 牢屋の原 17 ろうやのはら |
著者 | 長谷川 時雨 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「旧聞日本橋」 岩波文庫、岩波書店 1983(昭和58)年8月16日 |
入力者 | 門田裕志 |
校正者 | 松永正敏 |
公開 / 更新 | 2003-08-04 / 2014-09-17 |
長さの目安 | 約 12 ページ(500字/頁で計算) |
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金持ちになれる真理となれない真理――転がりこんで来た金玉を、これは正当な所得ではございませんとかえして貧乏する。いまどきそんなことはないかもしれないが、私のうちがそれだった。
御維新のあとのごたごたが納まっても、なかなか細かしいことは何時までも残っていたのであろう。転がりこんで来た金玉を押返してしまった人たちが、ある日こんなことをいっていた。
「たいした土地になった。」
「だからとっておおきになればいいのに。」
それは小伝馬町に面した大牢の一角を、無償で父にくれようといった当時のことを母が詰ったのだ。
丁度首斬り場のあたりだったというところの柳の木が、厠の小窓から見える古帳面屋の友達のうちから帰って来て、あたしが話したつづきからだった。
「西島屋のならびをずっとくれるといったのだが、おら不快だからな。」
「お父さんは欲がないから、断ってしまったのだとお言いなのだよ。今じゃたいした土地なのにねえ。」
母は、土一升金一升のまんなかで、しかもめぬきの土地の角地面の地主さんになれなかった怨みを時たまこぼす。
「あすこはな、不浄場といってたが、悪い奴ばかりはいないのだ。今と違ってどんなに無実の罪で死んだものがあるかしれやしない。おれは斬罪になる者の号泣を聞いているからいやだ。逃れよう、逃れようという気が、首を斬られてからも、ヒョイと前へ出るのだ。しでえことをしたもんで、後から縄をひっぱっている。前からは、髷をひっぱって、引っぱる。いやでも首を伸す時に、ちょいとやるんだ。まあ、あんな場処はほしくねえな。」
父が流行の長い刀をぶっこんでいた時分、明渡された江戸城の守備についていた時、苑内紅葉山に配置してある鹿の置物を狙い撃にしたものもあるとかいうほどだから、乱暴者に違いなかったであろうに、その人がそういうのだ。その後打首が廃され、絞首になる時その器具を造るのを調べさせられて用いた夜、どうしても寝具合がわるく、三晩もうなったので、役人なんざまっぴらごめんだと、噛りつきたがるはずの椅子を投りだしてしまった。そんな折の関係と土地ッ子なので、あの広大な土地を無償でくれようというのだったろう。無償とはいわないで、長谷川この土地はお前の名にしておけといわれたのだったそうだ。その当時の政府要路に深い縁のない父でさえそうだったから、その他の懐が、ふくれほうだいだったのは言うまでもなかろう。岩崎は丸の内一帯の大地主だ、丸の内といえば諸大名の官宅のあった土地だ。
その時、祖母も言った。
「浜町の三河様の邸あとも、くれるといったのだそうだよ。」
その時の断りかたがまたふるっている。折角ですが老母がいやがりますから――あすこは糞船の一ぱい寄るところで――と。三河様の邸跡は大樹が森々として、細川邸とつづき塀越しに大川の水がすぐ目の前にあり、月見に有名な土地で、中洲は繁華になった。
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