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石上神宮の神宝七枝刀
いそのかみじんぐうのじんぽうななつさやのたち |
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作品ID | 49790 |
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著者 | 喜田 貞吉 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「喜田貞吉著作集 第一巻 石器時代と考古学」 平凡社 1981(昭和56)年7月30日 |
初出 | 「民族と歴史 第一巻第一号」1919(大正8)年1月 |
入力者 | しだひろし |
校正者 | 杉浦鳥見 |
公開 / 更新 | 2020-07-03 / 2020-06-27 |
長さの目安 | 約 8 ページ(500字/頁で計算) |
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昨秋〔(大正七年)〕十月大和に遊び、石上神宮に参拝して、有名なる神宝六叉鉾と称する異形の古武器を拝観することを得た。茎一にして、左右に各三枝、都合六個の枝を生じて、切尖とともに七鋒をなしている。その切尖以外、六叉あるので、これを鉾と見立てて、六叉鉾の称を得たと察せられる。しかしこれが六叉鉾ではなく、七枝刀と称するものであることは、銘文に、「□陽造百錬□七支刀」とあるので明かである。
この七枝刀のことについては、すでに明治二十五年十二月の『史学雑誌』に、故星野〔(恒)〕先生が、図を掲げて考証を発表せられた〔39〕。それには、神功皇后五十二年に、わが千熊長彦に従って来た百済使者久[#挿絵]献上の、七枝刀なるものであろうと論ぜられている。まことに卓見で、爾後多くこれを疑ったものを聞かない。しかしながら先生は、いかなるゆえにや年表を見誤られて、魏の「太和」の年号を「泰初」となし、魏の文帝泰初四年のものだと考定せられた。この点はまことに惜しむべき過誤ではあるが、言わば白璧の微瑕で、大体において今なお立派な御研究と拝見する。
[#挿絵]
第一図 七枝刀
その後、大正三年八月、高橋健自君が関〔(保之助)〕・新納〔(忠之介)〕・佐藤〔(小吉)〕・梅原〔(末治)〕諸氏とともに、さらにその銘文を精査せられ、前に不明であったところも、やや明かになって来た。銘文は両面に各一直線に金象眼になっている。その文字を梅原君の手記によって示せば第二図の通り。
[#挿絵]
第二図 七枝刀銘文
かくて高橋君は、十月の考古学会の例会において、「京畿旅行談」の一部として、この神宝のことを述べられた。記事は『考古学雑誌』第五巻第三号にある。曰く、
其象嵌銘文は、泰始四年六月十一日丙午正陽造百錬□七支刀云々と読み得らる、三正綜覧によりて其干支を按ずるに、西晋武帝泰始四年六月十一日は丙午なれば、此鉾銘文は正しく晋の泰始に相違なく、星野博士は、此鉾を以て日本紀神功紀五十二年秋九月の条に見えたる、百済使者の献じたる七枝刀なるべしと論ぜられたるが、今其銘文中に七支刀とあれば、之れ七枝刀に相違なかるべく(云々)。
これを晋の泰始とすることは、故那珂〔(通世)〕博士もかつて余に語られたことがあるが、高橋君のはさらに干支に引き当て、百尺竿頭一歩を進められた研究として、世に推奨するに躊躇せぬ。
しかしながら、その銘文なる年号を「泰始」と読まれたについては、なお研究を要するものがあろうと思う。星野先生も泰始と泰初と両号を抽出せられ、
三国魏文帝の世に泰初あり、晋武帝の代に泰始あり。然れども「イ」(星野先生の見られたる銘文第二字目は、写し不完全にして、左旁の「イ」のみ見るを得たるなり)は「初」に近くして、「始」に遠し。疑らくは是「初」の字の残画ならん。
と、言われたが、高橋君らの丹誠によって、さらに精し…