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火葬と大蔵
かそうとだいぞう
作品ID49806
副題焼屍・洗骨・散骨の風俗
しょうし・せんこつ・さんこつのふうぞく
著者喜田 貞吉
文字遣い新字新仮名
底本 「先住民と差別 喜田貞吉歴史民俗学傑作選」 河出書房新社
2008(平成20)年1月30日
初出「民族と歴史 第三巻第七号」1919(大正8)年6月
入力者川山隆
校正者しだひろし
公開 / 更新2010-10-04 / 2014-09-21
長さの目安約 13 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

一 火葬の初めという事

 続日本紀に、文武天皇四年飛鳥元興寺の僧道照和尚遷化してその屍を焼いたのが、我が国火葬の初めだとある。その後僅かに中一年を措いて大宝二年には、持統天皇は万乗の尊い御身を以て、御遺骸を荼毘に附せられ給い、爾後歴代の天皇大抵この式によって、御葬儀を挙行された事に見えている。臣僚庶民の間においても無論これが行われたのに相違なく、その事実は考古学上からも或る程度までは立証せられるのみならず、霊異記を見ると、奈良朝から平安朝初期の葬儀が、土葬はむしろ特別の場合という風に見えるによっても察せられる。
 火葬は天竺に所謂風火水土の四葬の一つで、かの土には古くから行われていたものらしい。そしてその葬法が仏法とともに我が国に伝わって、入唐求法の道照和尚によって始めて実行されたということは、まさにしかるべき出来事である。しかしその以前我が国において、果して火葬という事がなかったであろうか。屍体を焼くことはすでに大宝令の本文にも少からず見えている。賦役令に、丁匠役に赴いて道に死せば、これを路次に埋め、本貫に告げて家人の来り取るなくはこれを焼けとか、軍防令に、行軍の際兵士以上身死せば、その屍は当処に焼き埋めよとか、防人道に在って身死せば、便に随い棺を給して焼き埋めよとかいう類これである。
 解する人はこの文を以て大宝当時のものでなく、今伝わっている令の本文は、養老年間に藤原不比等の修正したものであるから、養老当時の実際を書いたものだと言っている。しかし自分は、種々の確証から令の本文が、養老の際にそう改訂せられたのではなく、この文の如きも当初からのままだと確信しているものである。或いはこれが大宝当時のままの文であっても、その令の出来たのは道照火葬の翌年であるから、この始末のよい葬法を早速法令上に応用したのだと言うかもしれぬ。しかしそれ迄に屍を焼くという風習が少しもなかったものならば、いかにそれが便宜な葬法だからと云っても、どうで火葬のことだから、燎原の火の如く火急に広がったものであろうなどと、洒落て済ますべきものではない。葬儀の如きはことに旧習を重んじて、容易に変化し難いものである。さればよしや今存する令の本文が養老の修正であるとしても、本邦火葬の最初といわれる道照荼毘の後二十年にも足らぬこの短日月間に、これを或る場合における常法として法令上強行せしめるまでに、そう急に進展すべきものではなかろう。
 自分は固く信ずる。よしや火葬という事が道照によって始まったとしても、屍を焼くという事は遠い古えから我が国に行われていたのであったとの事を。
 我が国では屍体を鄭重に扱って、これを墓に蔵めるの風習のあった事は言うまでもない。しかしながらそれは貴顕豪富の間のみの事であって、一般庶民の間にあっては、殆ど委棄ともいうべき程の手軽な手段を以て、これが始末をつけた事は平安朝…

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