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旧聞日本橋
きゅうぶんにほんばし |
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作品ID | 4984 |
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副題 | 24 鬼眼鏡と鉄屑ぶとり(続旧聞日本橋・その三) 24 おにめがねとかなくそぶとり(ぞくきゅうぶんにほんばし・そのさん) |
著者 | 長谷川 時雨 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「旧聞日本橋」 岩波文庫、岩波書店 1983(昭和58)年8月16日 |
入力者 | 門田裕志 |
校正者 | 松永正敏 |
公開 / 更新 | 2003-08-10 / 2014-09-17 |
長さの目安 | 約 19 ページ(500字/頁で計算) |
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堀留――現今では堀留町となっているが、日本橋区内の、人形町通りの、大伝馬町二丁目後の、横にはいった一角が堀留で、小網町河岸の方からの堀留なのか、近い小舟町にゆかりがあるのか、子供だったわたしに地の理はよく分らなかったが、あの辺一帯を杉の森とあたしたちは呼んでいた。
土一升、金一升の土地に、杉の森という名はおかしいようだが、杉の森稲荷の境内は、なかなか広く、表通りは木綿問屋の大店にかこまれて、社はひっそりしていた。そのかみの東国、武蔵の国の、浅草川の河尻の洲のなかでも、この一角はもとからの森であったのかもしれない。ともかく、かなりの太さの杉の木立ちも残っていた。
社の裏の方は、細い道があって、そこには玉やという貸席や、堅田という鳴物師などが住んでいる艶めかしい空気があった。ずっと前には、この辺も境内であったのであろう。それゆえか、その細道には名がなくて、小路を出たところの横町がいなり新道というのだった。以前の葺屋町、堺町の芝居小屋への近道なので、その時分からこの辺も、そんな柔らかい空気の濃厚な場所だったかもしれない。そしてまた、この杉の森は、享保のころ、芝居でする『恋娘昔八丈』や『梅雨小袖昔八丈』などの白木屋お駒――実説では大岡裁判の白子屋お熊の家のあった場所であり、お熊の家は材木商であったのだから、堀留は、深川木場の材木堀のように、材木を溜めておく置場にもなっていたのかもしれない。
こんな、あぶなっかしい地理より、ここに『江戸名所図絵』がある。これによると、杉の森稲荷社所在地は、新材木町で、社記によれば、相馬将門威を東国に振い、藤原秀郷朝敵誅伐の計策をめぐらし、この神の加護によって将門を亡したので、この地にいたり、喬々たる杉の森に、神像を崇め祀ったのだとある。
そこで、早のみこみに、下町は、江戸時代に埋めたてたのだから、いくら杉の森といっても、その後に植林したのだなどという誤解はなくなるわけだ。だが、稲荷さんといえば、伊勢屋稲荷に犬の糞と、江戸の名物のようにいわれたほど、おいなりさんは江戸時代の流行ものだが、秀郷祀るところの神さまと、どうして代ったのかというと、それにも由縁はあるが、廂をかした稲荷の方へ、杉の森の土地をとられてしまった訳だった。
それは寛正の頃、東国大に旱魃、太田道灌江戸城にあって憂い、この杉の森鎮座の神にお祷りをした験があって雨降り、百穀大に登る。依て、そのころ、山城国稲荷山をうつして勧請したというのだが、お末社が幅をきかしてしまって、道灌が祷ったという神の名も記してない。秀郷祀るところの御本体も置いてない。だが、附記にも、昔杉の木立いと深かりしなりとある。あたしも子供の時分、四月十六日のお祭奠に、杉の木へ寄りかかって神楽を見た覚えもあざやかに残っているし、小僧が木の幹にしがみついて、登って見ていたのも覚えているから、幾本かは、…