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![]() じごく |
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作品ID | 49845 |
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著者 | 神西 清 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「雪の宿り 神西清小説セレクション」 港の人 2008(平成20)年10月5日 |
初出 | 「文學界」1953(昭和28)年1月号 |
入力者 | kompass |
校正者 | 小林繁雄、門田裕志 |
公開 / 更新 | 2012-02-07 / 2014-09-16 |
長さの目安 | 約 81 ページ(500字/頁で計算) |
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[#ページの左右中央]
しかし、暗闇がそもそも画布なのだ。見覚えのある目つきの亡者どもが、ぼくの眼からほとばしつて、大勢そこに生きてゐる。
――ボオドレール
[#改ページ]
1
一人の医者が死んだ。それは彼の従姉のつれあひであつた。その男は、左のコメカミに大きな紫斑をにじませて、長い白木の箱に入れられて、鉄の運搬車に載せられて、火葬室の鉄扉へ足を向けて横たはつてゐる。はげしい火気で赤錆びの出た鉄扉がずらりと並んだ中で、ひときは大きいその扉には、特別一等の名誉のために、給仕頭のお四季施よろしく、銀色の唐草模様が絡んでゐる。運搬車の枕もとには、臨時の焼香台が据ゑられて、香煙が機械的に立ち昇つてゐる。紫の衣をきた小柄な老僧が、さつきから黄色い声で経をよんでゐる。それが、ひよいと懐へ手を入れかけて、あわてたやうに左後を振りかへつた。こんどは右後を振りかへつた。そして彼――繁夫をみとめると、手の平を上へ煽ぐやうにした。忘れてゐたのである。繁夫は制服のポケットから、折りたたんだ巻紙をとり出すと、進み出て手渡した。偈である。
議論ずきで洒落で、すつ頓狂なところさへある洪天和尚は、さつきいよいよ出棺の間ぎはになつて、偈を失念してゐたことを思ひだした。「こりやあかん、あかん」と、わざと大阪弁で言ひ、診察室へ飛びこんで、あり合せの巻紙にさらさらと書き流した。「火急の際ぢや、ええと何かいい文句はないかいな」と呟いたところを見ると、文句もどうやら有り合せらしいが、墨痕は淋漓としてさすがだつた。書き終へると繁夫に渡して、「君、持つててくれたまへ。このそそつかし屋が、また落すといかんでな」
繁夫は遺族の後列に戻ると、瓦灯窓に肩をもたせて目を伏せた。経が終つて、偈になる。声が沈んで、話しかけるやうな調子だ。どこかで女のすすりあげる声がした。偈は進んで末段にかかる。
会スヤ 明月清風 自己ノ三昧
青山緑水 打成一片
モト自カラ地獄ナシ
アニ又 天堂アランヤ
モシ未ダ会セズンバ
山僧ガ提携シ去ルヲ看ヨ……
洪天さんの右肩が、ぐいとあがる。いきなり抹香をつかむと、パッと香炉へ投げこんだ。飛び散る火花の幻覚が繁夫の眼を射る。間髪をいれず、
木鳩火裡ニ啼ク。……喝!
とたんに繁夫の眼のなかで、火花が炎々たる劫火に変る。炎々と火が燃える。その向うで、洪天さんは小まめな中腰になつて、棺の覗き窓をあけると、畳んだ今の紙をマーガレットの花の上へ押しこんだ。焼香がめぐる。女のすすり泣き。天才教育で有名な中学の制服で、よれよれの黒ネクタイをした長男の透が、神経質な眉をヒクつかせて帰つてくると、つづいて故人の後妻の梅代が、着なれぬ喪服の裾をばくばくさせながら、青ぶくれの顔の眼のふちを真赤に染めて帰つてくる。やがて鉄扉がひらく。運搬車が動きだし、棺が吸ひこまれる。鉄扉がしまり、響き高…