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![]() ずしものがたり |
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作品ID | 49869 |
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著者 | 橘 外男 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「橘外男ワンダーランド 怪談・怪奇篇」 中央書院 1994(平成6)年7月29日 |
初出 | 「新青年」1937(昭和12)年8月 |
入力者 | 門田裕志 |
校正者 | 江村秀之 |
公開 / 更新 | 2019-10-10 / 2019-09-27 |
長さの目安 | 約 72 ページ(500字/頁で計算) |
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一
逗子に了雲寺という天台宗の寺がある。詳しく言えば、逗子とは言ってもここは田浦との中間地点、むしろ田浦の方に位していると言った方がいいのかも知れぬが、東京からの避暑客などは道の遠いのとあまりにも物淋しいのとで、ほとんど顧みる人もいなかった。
田越川に沿うて神武寺を左に眺めつつ三崎街道の埃っぽい道をどこまでもどこまでも伝わって行くと、やがて小一里近く道は二股に分れて、一つはその埃っぽい道を左の方へ単調に続けて行き、一つは石礫の多い山坂道を右の方へと分け入って行く。
了雲寺というのはこの右の方へ山ふところを分け入ったところにあったが、行くこと更に七、八町、道は再び豁然として開け、やがて左側の大きな欅の樹陰に色褪せた旗を立てて一軒の百姓家が往来も稀れな通行人のために草鞋三文菓子なぞを商っている前へと出る。そのすぐ向うからもう長々とした石段の入り口になって、そこには不許葷酒入山門と六朝風な字で彫った古い苔むした自然石が倒れ掛かっていた。そして胸を衝くような長い石段が――こんな名もない田舎寺には勿体ないような長いじめじめとした石段が見上げるような頭上の山の頂に列なっていて、深々と山を掩った昼なお暗い老杉がいつ来て見てもザワザワと揺れ立っていた。まるで石清水でもそこら中から湧き出そうな幽邃な肌寒い感じであった。
これが諸君にお話しようとするこの怪奇な物語の起った逗子の了雲寺の全貌であったが、これだけの構えをしている以上もちろん昔は相当に寺格の高い由緒ある寺であったろうが、今は見る陰もなく荒れ果てて一見廃寺としか思われぬ古寺であった。住持もいるのかいないのか、いつ来て見てもこのあたりは森閑として庫裡に人影一つ動いたこともない寂然さであった。ただ聞えてくるものとては遥かの相模灘から吹き上げてくる強い海風を受けて、物怪でも棲んでいそうなほど鬱蒼たる全山の高い梢が絶え間もなく飄々と哮え猛っているばかりであった。月の出た宵などにここを通ると、まるで山全体が真っ黒な怪物のように見えて、今にも頭の上から掩い被さってくるような気持がすると、私の宿をしていた百姓屋のお内儀さんなぞは、話をするだけでも恐ろしそうに首を竦めていた。
が、それはともかくとして、一体いつ頃から私がこういう世の中から棄て去られたような陰気な山寺の奥なぞに杖を曳き出したものであろうか。判然したことはもう覚えてもいなかったが、ちょうどその時分が結婚後間もなく胸の病を発してきた妻が、鎌倉の病院で亡ったばかりの頃で、私はたった一人で桜山の百姓家の離れ座敷を借りて味気ないその日その日を送り迎えていた頃であったから、幾分厭世的になっていた私の心には、こういう人気のない幽静な場所が一番気持にピッタリと合っていたのではないかと思われる。別にすることもなくもの憂い日々を送りながら、眼に触れ耳に聞くもの一つ一つに妻の思い…