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耶馬渓の一夜
やばけいのいちや
作品ID4987
著者田山 花袋
文字遣い新字旧仮名
底本 「現代日本紀行文学全集 南日本編」 ほるぷ出版
1976(昭和51)年8月1日
入力者林幸雄
校正者鈴木厚司
公開 / 更新2004-12-19 / 2014-09-18
長さの目安約 11 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 町のお祭か何かで、中津の停車場はひどく雑沓した。おまけに、雨はかなりに強く降つてゐる。私達は耶馬渓に行く軌道の方へと行つて見たが、そこにも乗客が一杯押寄せてゐた。
 漸く乗るには乗つたが、中々発車しない。あとからあとへと乗客が乗つて来る。大抵は祭礼を見に来た連中で、赤い腰巻をまくつた姐さんや、晴衣を着飾つた子供や、婆さまや、中には小学校の先生らしい人々もゐた。皆な腰をかけずに立つてゐた。
「ひどく込むわねえ。」
 かう一緒に伴れてゐた女は言つた。女の母親は小さくなつて隅の方に辛うじて腰をかけてゐた。これから山の中に入つて行かうとするのに、雨が止みさうにないのにも私達は心を苦しめた。
 耶馬渓の谷の中にも、旅舎はあるに相違ない。しかし何ういふ旅舎が私達を迎へるであらうか。汚い蒲団、暗いわびしい室、碌々言葉もわからないやうな山中の民――かう思ふと旅の興も失せかけた。
 暫くして軌道車は出た。鉄道馬車の少し早い位である。ぐる/\と、中津の町は見えてそして隠れて行つた。頼山陽の最初に滞在した寺が其処から近いといふ停車場あたりからは、杉林が段々見え出して、向うに旧知の八面山がその城壁のやうな姿をあらはして来た。小さな停車場は停車場につゞいた。そして一杯に乗つてゐた人達は一人下り二人下りて、これからそろ/\渓に入らうとするところにある停車場に行つた時には、もう立つてゐるものもなくなる位に車室はゆるやかになつてゐた。
 雨も小降りになつた。
「好い塩梅ね――」
 かう女は喜ばしさうに言つた。
 やがて渓はその最初の潺渓を段々その前に展いて来た。村が山に凭つたり渓に沈んだりしてゐる。深く覗かれた谷には、瀬が白く美しく砕けてゐた。
 私は此の前に来た時のことなど思ひ浮べてゐた。其時は、中津から川に添つて、暑い道を馬車で来た。福岡に男と駈落した村の娘の伴れて帰られるのと一緒であつた。娘はしほ/\としてゐて、伴れの男が氷を買つて呉れても、それを飲むにすら気が進まないといふ風であつた。可愛い眼をした娘だつた。
「おゝ好い」
 かう女が言つたので、気が附くと、軌道車は既に美しい鮎返りの瀑を前にして、今しも樋田の洞門にかゝらうとしてゐた。山には山が重なり合ひ、雲はまたその山の上に[#挿絵]湧した。
 私はあちこちを女や女の母親に示した。「そら、そこの洞門の中を歩いて通つて行くんですよ。あそこに路があるんですよ。歩いて見ると、もつと非常に景色が好いんですがね。」
 段々帯岩一帯の奇岩が雨後の筍のやうに続々としてあらはれ出して来た。あるものは簇がる雲の中から、或るものは連なる峰の上から、時には松をあしらひ、時には檜の木の林を靡かせつゝ――そして渓は幾曲折しその間を流れて行つた。
 樋田から羅漢寺に来た時には、薄暮の色が既に迫つて、村や、橋や、谷や、路がぼつとぼかしの中に見えるやうになつた…

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