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『偶像再興』序言
『ぐうぞうさいこう』じょげん |
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作品ID | 49874 |
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著者 | 和辻 哲郎 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「偶像再興・面とペルソナ 和辻哲郎感想集」 講談社文芸文庫、講談社 2007(平成19)年4月10日 |
初出 | 「偶像再興」岩波書店、1918(大正7)年11月 |
入力者 | 門田裕志 |
校正者 | noriko saito |
公開 / 更新 | 2011-05-23 / 2014-09-16 |
長さの目安 | 約 13 ページ(500字/頁で計算) |
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一
偶像破壊が生活の進展に欠くべからざるものであることは今さら繰り返すまでもない。生命の流動はただこの道によってのみ保持せらる。我らが無意識の内に不断に築きつつある偶像は、注意深い努力によって、また不断に破壊せられねばならぬ。
しかし偶像は何の意味もなく造られるのではない。それは生命の流動に統一ある力強さを与えるべく、また生命の発育を健やかな豊満と美とに導くべく、生活にとって欠くべからざる任務を有する。これなくしては人は意識の混沌と欲求の分裂との間に萎縮しおわらなくてはならぬ。人が何らか積極的の生を営み得るためには「虚無」さえも偶像であり得る。
偶像が破壊せられなくてはならないのは、それが象徴的の効用を失って硬化するゆえである。硬化すればそれはもう生命のない石に過ぎぬ。あるいは固定観念に過ぎぬ。けれどもこの硬化は、偶像そのものにおいて起こる現象ではなく、偶像を持つ者の心に起こる現象である。彼らにとって偶像は破壊せられなくてはならぬ。しかし偶像そのものは依然としてその象徴的生命を失わない。彼らにとって有害なるものも、その真の効用を解する他のものにとっては有益で有り得る。偶像再興が生活にとって意義あるはそのためである。
二
文字通りの「偶像」について考えてみる。
使徒パウロは偶像を排するに火のごとき熱心をもってした。彼の見た偶像は真実の生の障礙たる迷信の対象に過ぎなかった。彼が名もなき一人のさすらい人としてアテネの町を歩く。彼の目にふれるのは偶像の光栄に浴し偶像の力に充たされたと迷信する愚昧な民衆の歓酔である。彼らは鐃[#挿絵]や手銅鼓や女夫笛の騒々しい響きに合わせて、淫らな乱暴な踊りを踊っている。そうしてその肉感的な陶酔を神への奉仕であると信じている。さらにはなはだしいのは神前にささげる閹人の踊りである。閹人たちは踊りが高潮に達した時に小刀をもって腕や腿を傷つける。そうして血みどろになって猛烈に踊り続ける。それを見まもる者はその血の歓びを神の恩寵として感じている。その彼らはまた処女の神聖を神にささげると称して神殿を婚姻の床に代用する。性欲の神秘を神に帰するがゆえに、また神殿は娼婦の家ともなる。パウロはそれを自分の眼で見た。そうして「いたく心を痛め」た。桂の愛らしい緑や微風にそよぐプラタアネの若葉に取り巻かれた肌の美しい女神の像も彼には敵意のほかの何の情緒をも起こさせなかった。台石の回りに咲き乱れている菫や薔薇、その上にキラキラと飛び回っている蜜蜂、――これらの小さい自然の内にも、人間の手で造った偶像よりははるかに貴い生が充ちわたっている。彼は興奮してアゴラへ行って人々に論じかけた。エピクリアンの哲学者が彼の相手になる。偶像の迷信を彼が攻撃すると、哲学者も迷信の弊を認めて同意する。彼はそれに力を得てイエスの復活を説き立てる。哲学者は急に熱心になっ…