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樹の根
きのね
作品ID49886
著者和辻 哲郎
文字遣い新字新仮名
底本 「偶像再興・面とペルソナ 和辻哲郎感想集」 講談社文芸文庫、講談社
2007(平成19)年4月10日
入力者門田裕志
校正者noriko saito
公開 / 更新2011-05-04 / 2014-09-16
長さの目安約 6 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 松の樹に囲まれた家の中に住んでいても松の樹の根が地中でどうなっているかはあまり考えてみた事がなかった。美しい赤褐色の幹や、わりに色の浅い清らかな緑の葉が、永いなじみである松の樹の全体であるような気持ちがしていた。雨がふると幹の色はしっとりと落ちついた、潤いのある鮮やかさを見せる。緑の葉は涙にぬれたようなしおらしい色艶を増して来る。雨のあとで太陽が輝き出すと、早朝のような爽やかな気分が、樹の色や光の内に漂うて、いかにも朗らかな生の喜びがそこに躍っているように感ぜられる。おりふしかわいい小鳥の群れが活き活きした声でさえずり交わして、緑の葉の間を楽しそうに往き来する。――それが私の親しい松の樹であった。
 しかるにある時、私は松の樹の生い育った小高い砂山を崩している所にたたずんで、砂の中に食い込んだ複雑な根を見まもることができた。地上と地下の姿が何とひどく相違していることだろう。一本の幹と、簡素に並んだ枝と、楽しそうに葉先をそろえた針葉と、――それに比べて地下の根は、戦い、もがき、苦しみ、精いっぱいの努力をつくしたように、枝から枝と分かれて、乱れた女の髪のごとく、地上の枝幹の総量よりも多いと思われる太い根細い根の無数をもって、一斉に大地に抱きついている。私はこのような根が地下にあることを知ってはいた。しかしそれを目の前にまざまざと見たときには、思わず驚異の情に打たれぬわけには行かなかった。私は永いなじみの間に、このような地下の苦しみが不断に彼らにあることを、一度も自分の心臓で感じたことがなかったのである。彼の苦しみの声を聞いたのは、時おりに吹く烈風の際であった。彼の苦しそうな顔を見たのは、湿りのない炎熱の日が一月以上も続いた後であった。しかしその叫び声やしおれた顔も、その機会さえ過ぎれば、すぐに元の快活に帰って苦しみの痕をめったにあとへ残さない。しかも彼らは、我々の眼に秘められた地下の営みを、一日も怠ったことがないのであった。あの美しい幹も葉も、五月の風に吹かれて飛ぶ緑の花粉も、実はこのような苦労の上にのみ可能なのであった。
 この時以来私は松の樹のみならず、あらゆる植物に心から親しみを感ずるようになった。彼らは我々とともに生きているのである。それは誰でも知っている事だが、私には新しい事実としか思えなかった。



 私は高野山へのぼった。そうして不動坂にさしかかった時に、数知れず立ち並んでいるあの太い檜の木から、何とも言えぬ荘厳な心持ちを押しつけられた。なるほどこれは霊山だと思わずにはいられなかった。この地をえらんだ弘法大師の見識にもつくづく敬服するような気持ちになった。
 それは外郭に連なる山々によって平野から切り離された、急峻な山の斜面である。幾世紀を経て来たかわからない老樹たちは、金剛不壊という言葉に似つかわしいほどなどつしりとした、迷いのない、…

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