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![]() どうきょうしそう |
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作品ID | 50021 |
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著者 | 幸田 露伴 Ⓦ |
文字遣い | 旧字旧仮名 |
底本 |
「露伴全集 第十八卷」 岩波書店 1949(昭和24)年10月10日 |
初出 | 「岩波講座 東洋思潮」岩波書店、1936(昭和11)年7月 |
入力者 | しだひろし |
校正者 | 永田 滋 |
公開 / 更新 | 2025-08-22 / 2025-08-20 |
長さの目安 | 約 64 ページ(500字/頁で計算) |
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支那に道教と稱せらるゝ宗教があり、道家といはるゝ師徒があつて、そして傳承年久しく其教が今に存在し、其徒が猶少からざることは、周知の事實である。盛衰隆替は何物の上にも免るべからざることであるから、現時は唐宋元明の世に比しては勢威の揚がらざる觀があるが、それでも道教道家の氣味風韵が、禹域の文學藝術を浸涵し、社會民衆を薫染してゐることは、なか/\深大であつて、儒教、佛教と鼎立して、支那文化を三分して其一を有してゐると云つても宜いほどである。此故に道教道家の氣味風韵を知らずしては支那其物を解釋することが不可能だと云ふとも、誰も否といふものはあるまい。試に士人の間に愛好さるゝ詩を觀よう。李太白の詩篇幾百十、其中ににじみ出てゐる高い感情、人生の紛紜のみに沒頭埋身することを肯んじないところのものは、道家的氣味風韵でなくて何であらう。蘇東坡や陸放翁の詩に道家の香のするのは誰も知るところである。民庶の間に愛好さるゝ小説を觀よう。水滸傳は劈頭第一に、道家の神祕を點出して、百八魔君を走らす一場を物凄じく描いてゐるではないか。紅樓夢は主人公賈寶玉が紅を憐み翠を惜むの癡情を脱し、富貴名利を弊履の如くにして、赤足に雪を踐んで大踏歩し去るところを歸結にしてゐる。道家的の味でなくて何の味であらう。演劇には滑稽化さるゝまでに道教的臭氣のするものが多いのである。宋元の畫を觀よう。人は誰しも神仙の高致が陽に陰に寫取せられてゐることが餘りにも多いのを感ぜずには居られまい。年中行事を考察しよう。彼の賑やかな上元燈華の節からはじめて道教信仰の意を有つものはもとより多い。民衆信仰の符呪[#挿絵]祭祈祷禳祓の類、及びそれらに關する傳説等、道教から派出したもの、道教を混入せるもの、それも亦もとより多い。たゞし道教の支那に於ける、是の如く廣被弘通せるにかゝはらず、さて道教は如何なるものぞ、道教の思想は如何なるものぞ、といふ問に對しては、明白的確に答ふることは甚だ容易でない。
もつとも道教のみではない、凡そ宗教といふものは、その核心又は頂上の意義の如何なるものであるかが難思難議であるのを常とする。否、その難思難議であるのがむしろ宗教其物の根本性質であつて、理智のみで解釋し盡し、批評し了せらるゝが如きものは、宗教たるの尊嚴を保持する所以のもので無いとも云へるのである。智解を以てしては到達し能はざるところの玄奧の或點を有してゐて、其點を體得身證せしむるに至る道程を歩ましむることが即ち宗教の本眞の意義なのである。それ故に或宗教を他方面の人士が外部から會得せんとすることは、其宗教から云へば無理な事であつて、理智のみを以て宗教を會得せんとするのは、砂を煮て飯と爲さんと欲するが如しと、其宗教からは彈呵さるるのが當然である。苟も宗教たる以上は其宗教は必ず凡夫の智解の及びかぬるものとするところの神聖のものが儼存してゐるので…