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赤城山
あかぎさん |
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作品ID | 50024 |
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著者 | 大町 桂月 Ⓦ |
文字遣い | 旧字旧仮名 |
底本 |
「桂月全集 第二卷 紀行一」 興文社内桂月全集刊行會 1922(大正11)年7月9日 |
入力者 | H.YAM |
校正者 | 雪森 |
公開 / 更新 | 2018-03-06 / 2018-02-25 |
長さの目安 | 約 15 ページ(500字/頁で計算) |
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一 赤城の大沼
明治四十一年十月の末、われ三度目にて妙義山に遊び、去つて榛名山の麓を過ぎて、赤城山に上りぬ。
世に、妙義、榛名、赤城の三山を、上州の三名山と稱す。げに、いづれも、名山也。されど、各[#挿絵]其特色を異にす。まづ高さを云へば、赤城は六千尺、榛名は五千尺、妙義は三千尺にも足らず。大きさを云へば、妙義は二里四方、榛名は六里四方、赤城は十里四方の地盤を占む。赤城にも、榛名にも、湖あり、溪流あり、瀑布あり。妙義には、全く水無し。赤城は骨を露はさず、榛名は少し露はし、妙義は大いに露はす。殊にその石門の奇は、天下無比也。名山と云はば、三山皆洩れざるが、高山と云はば、赤城也。大山と云はば赤城也、榛名も之に入る。奇山と云はば、妙義の獨占に歸す。
げに、妙義は奇拔也。されど、妙義の奇拔を喜ぶの趣味より推して、赤城を平凡とのみけなさば、これ赤城の眞相を知らざる者也。赤城は壯大也。されど、赤城の壯大を喜ぶの趣味より推して、妙義を狹小とのみけなさば、これ妙義の特色を知らざる者也。もし維新の三傑を以て、上毛の三名山に比すれば、もとより全體といふわけには行かざれども、或點は、西郷隆盛は赤城也、木戸孝允は榛名也、大久保利通は妙義也。今の大政治家を以てすれば、山縣公は赤城也、伊藤公は榛名也、大隈伯は妙義也。古の英雄に及べば、織田信長は妙義也、豐臣秀吉は榛名也、徳川家康は赤城也。政治家や實業家は、赤城的なるが多く、宗教家も名僧となれば赤城的也。學者や藝術家は妙義的なるが多く、軍人も士官時代は妙義的也。概して、日本國民は妙義的也。日本國民の中にても、上州の人士は、妙義的なるやうに見受けらるゝ也。
われ二十一歳にして、始めて妙義に上りぬ。三十五歳にして、始めて榛名に上りぬ。四十歳にして、始めて赤城に上りぬ。いづれも皆名山と感服す。妙義は、當年見て奇と感じ、今日見ても奇と感ず。當年もし赤城を見なば、平凡とけなししかも知れず。唯[#挿絵]恥づかしく、平凡の資、青年時代にも、妙義の奇を得ず、壯年時代になりても、赤城の大を得る能はざることを。
赤城は四方八方より登らるゝ山なるが、われは、前橋驛に下りて小暮路を取りぬ。その小暮路の手前を早く右へまがりて、前橋の市外に出で、近く面前に赤城の荒山、鍋割、硯石の三山を見るものの、路多くして、いづれを小暮路とも、わき難し。『小暮へは/\』と、七度も八度も人に問ひて、漸く小暮路に出づれば、岐路あれど紛はず。路は高まるともなく高まりて、顧みれば、上州の平原早や廣く開けたり。朱の鳥居の立てる處、二三の飮食店あり、農家もあり。これ小暮村也。一店に休息し、『前橋へは何里』と問へば、『二里』といふ。『赤城山までは』、『五里』といふ。一時間ぐらゐ休息しても大丈夫と落ちつきて、微醉を買ふ。荷馬車四つ五つ店前にとまり、四五人の若者どや/\入り來りて、茶を飮み…