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木乃伊の口紅
ミイラのくちべに
作品ID5006
著者田村 俊子
文字遣い旧字旧仮名
底本 「田村俊子作品集・1」 オリジン出版センター
1987(昭和62)年12月10日
初出「中央公論」1913(大正2)年4月
入力者小鍛冶茂子
校正者小林繁雄
公開 / 更新2006-10-12 / 2014-09-18
長さの目安約 79 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

       一

 淋しい風が吹いて來て、一本圖拔けて背の高い冠のやうな檜葉の突先がひよろ/\と風に搖られた。一月初めの夕暮れの空は薄黄色を含んだ濁つた色に曇つて、ペンで描いたやうな裸の梢の間から青磁色をした五重の塔の屋根が現はれてゐた。
 みのるは今朝早く何所と云ふ當てもなく仕事を探しに出た良人の行先を思ひながら、ふところ手をした儘、二階の窓に立つて空を眺めてゐた。横手の壁に汚點のやうな長方形の薄い夕日がぼうと射してゐたが、何時の間にかそれも失くなつて、外は薄暗の力が端から端へと物を消していつた。みのるは夕飯に豆腐を買ふ事を忘れまいと思ひながら下へおりて行くのが物憂くつて、豆腐屋の呼笛の音を聞きながら、二三人家の前を通つて行つた事に氣が付いてゐたけれども下りて行かなかつた。そうして夕暮の空を眺めてゐた。
 晴れた日ならば上野の森には今頃は紫いろの靄が棚引くのであつた。一日森の梢に親しんでゐたその日の空が別れる際にいたづらをして、紫いろの息を其所等一面に吹つかけるのであらうと、みのるは然う思つて眺めてゐた。今日の夕方は木も屋根も乾いた色に一とつ/\凝結して、そうして靜に絡み付いてくる薄暗の影にかくれて行つた。みのるはそれを淋しい景色に思ひしみながら、目を下に向けると、丁度裏の琴の師匠の家の格子戸から外へ出て來た娘が、みのるの顏を見上げながら微笑をして頭を下げた。みのるはこの娘の顏を見る度に、去年の夏、夕立のした日の暮れ方に自分が良人の肩に手をかけて二人して森の方を眺めてゐたところを、この娘に見られた時の羞恥を思ひ出した。今もその追憶が娘の微笑の影と一所に自分の胸に閃いたので、みのるは何所となく小娘らしい所作で辭儀を返した。さうして直ぐばた/″\と雨戸を繰つて下へおりて來た。
 豆腐屋の呼笛が何所か往來の方で聞こえてはゐたけれども、もう此邊までは來なくなつた。みのるは下の座敷の雨戸もすつかりと閉めて、茶の間の電氣をひねつてから門のところへ出て見た。
 眼の前の共同墓地に新らしい墓標が二三本殖えてゐた。墓地を片側にして角の銀杏の木まで一と筋の銀紙をはりふさげたやうな白々とした小路には人の影もなかつた。肋骨の見えた痩せた飼犬が夕暮れのおぼろな影に石膏のやうな色を見せて、小枝を噛へながら驅け廻つて遊んでゐた。さうして良人の歸つて來る方をぢつと見詰めてゐるみのるの足の下に寄つてくると、犬はみのると同じやうな向きに坐つて、地面の上に微に尻尾の先きを振りながら遠い銀杏の木の方を見守つた。
「メエイ。」
 みのるは袖の下になつてゐる犬の頭を見下しながら低い聲で呼んだ。呼ばれた犬は凝つとした儘でその顏だけを仰向かせてみのるを見詰めたが、直ぐその顏を斜にして、生きたるものゝ物音は一切立消えてゆく靜まり返つた周圍から何か神秘な物音に觸れやうとする樣にその小さい耳を動かした。無數…

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