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赤とピンクの世界
あかとピンクのせかい |
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作品ID | 50141 |
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著者 | 片山 広子 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「燈火節」 月曜社 2004(平成16)年11月30日 |
入力者 | 竹内美佐子 |
校正者 | 伊藤時也 |
公開 / 更新 | 2010-11-12 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 8 ページ(500字/頁で計算) |
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農村が町となり、ながめが好く空気もきれいなので、だんだん新しい家が出来て、住む人も多くなつて来た。町のひらけ始めた時分に出来た十軒ばかりの家は、それぞれ屋根の色がちがひ坪数もちがつてゐるが、どの家もみんなみづみづしい生垣で、庭に椿や海棠やぼけ、また木犀や山茶花なぞ植ゑてあり、門前の道は何時もきれいに掃かれてこの辺一帯は裕福なインテリ層のすまひとすぐわかる。その中の一軒に、六十四五のおばあちやんがたつた一人で暮してゐた。
ずうつと前からここにゐる人で、前にはだんなさんも一しよだつたが、それは三四年前に亡くなり、一人の息子さんは結婚してもつと都心に近いところのアパートに暮してゐるといふ噂だつた。おばあちやんは時々は息子の家に遊びに行つて泊つて来るし、息子夫婦も日曜日にあそびに来ることもあつて、よそ目には愉しい静かな暮しと見え、八百屋や魚屋に買物に出かけるおばあちやんはわかい主婦たちに負けず元気であつた。或る日そのおばあちやんがゐなくなつてしまつた。近所の人たちもはじめ三四日は知らなかつた。となりの家では息子さんの所へ泊りに行つてるのだらう位に思つてゐたが、それきり帰つて来ず、窓も玄関も閉つたまま一週間になつた時、そこへ古いお友達だといふこれも隠居らしい人が訪ねて来て、隣家の奥さんと話をした。ひさしぶりで来たのにと残念がつて、それでは息子さんのアパートへ寄つてみませうと言つて帰つて行つた。その人のおかげでおばあちやんの不在がわかつて、息子さんはすぐ親類や知合の人たちに連絡してみたが、どこにもゐず、このごろ久しく会はないとみんなが言つた。おばあちやんの家はきれいに片づいて、食器は戸棚に、着物はたたんで乱ればこに入れてあり、どこへ出かけると書き残した紙きれもなかつた。やがて警察の手を借りて、親類も昔の出入りの人たちも総動員で東京じう探し廻つた。もしや途中で脳溢血になりどこかの病院にゐるのではないか、もしや急に気が変になつて近県の田舎にでも行つて迷子になつてゐるのではないか、彼等はありとあらゆる推理をはたらかして、別にあてどもなく探してみたが、彼女はどこにもゐなかつた。
一月ほど経つて警察から知らせがあつて、両国の方のどこかの井戸に水死人があつたが、着物の様子でもしやと思はれる、来て見るやうにと言はれて、息子と近い身寄の人たちが行つてみると、正しくおばあちやんだつた。彼女はちやんと外出着に着かへて帯のあひだには、家出する少し前に息子から渡された一万六千円の紙幣がちつとも使はれずにちやんとしまつてあつて、遺言も何もないからどういふわけで死んだかも分らないといふ話だつた。葬式もその時世なりに立派に行はれて、おばあちやんは仏さまになり、おばあちやんの家にはその後息子さん夫婦が移つて来て住んでゐる。これは二年前の話である。
ひそひそと近所の人たちの話すことでは、女といふ…