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軽井沢の夏と秋
かるいざわのなつとあき
作品ID50146
著者片山 広子
文字遣い新字旧仮名
底本 「燈火節」 月曜社
2004(平成16)年11月30日
入力者竹内美佐子
校正者伊藤時也
公開 / 更新2010-11-17 / 2014-09-21
長さの目安約 12 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 三月二十四日にTが亡くなつた。その二日ばかり前に私は彼と会つて一時間ばかり話をした。その時も彼は空襲がだんだんひどくなるから母さんは早く軽井沢に行つた方がよろしい、自分たちもすぐあとから行くからと私を急かしてゐた。もし軽井沢から急に東京に帰れない場合は彼の妻の実家である岐阜県の大井町へ行つてみるつもりらしかつた。急に彼に死なれて私は疎開する気もなくなつたけれど、それから三月ばかり立つて六月中ばにやつとのこと軽井沢に出かけて行つた。
 故郷を持たない人たち、つまり東京人種が無数に軽井沢にあつまつて来てゐた。別荘をもつてゐる人たちはその自分の家に住みついて、不自由ながらもどうにか夏の生活をはじめ、私たち宿屋組もいろいろの工夫をして、なるべくふだんの生活に近い暮しをしようとしてゐた。馬鈴薯や林檎を買ひ出しに行つたり、町のすみの店でこつそり紅茶をさがし出して来たり、すしやで売り出したカボチヤランチといふのを買ひしめて宿の女中さんたちに御馳走してみたり、その日その日はものを考へるひまもなく流れた。三度の食事をしてゐれば、ほかの不自由さはどうにか我慢ができた。インキがないから万年筆を持つて宿屋のお帳場に行つてインキを入れ、二階の奥の部屋まで帰つて来て手紙を書き、さて封筒がないから、またお勝手に御飯つぶをもらひに行つて不器用な手つきをして、ありあはせの紙で封筒みたいなものを張り、それからポストまで出かけて行く、こんなことも波の上の生活みたいに落ちつかない毎日の暮しの一部であつた。
 六月末であつたか、駅の方まで用たしに行くとき、私は一人の立派な奥さんと道づれになつた。立派といふのは、東京に於ける過去の生活が立派であつたらうと思はせる人で、この日の奥さんは黒いモンペ姿で包を一つしよひ一つはぶらさげてゐた。彼女は三十と四十の中途ぐらゐの年頃に見えた。「信州はずゐぶんとぼしいところでございますね」と彼女が言つた。私は宿屋生活をしてゐるので、一週間に一度ぐらゐ田舎の買物に出れば、どうにか用が足りるといふ話をすると、彼女は溜息をして、一軒の家を持つてゐるととても大へんだと言つた。三笠の部落にゐるので、ついその二三日前に学校の先生の方からの知らせで、あがつまの野原にたくさん蕨があるから父兄の人たちに採りにゆくやうにと言はれて、行つたさうである。(ある上流子弟の学校の父兄会のグループが団体で疎開してゐるらしかつた。)電車に乗つても時間のかかる所だから、蕨とりにそこまで出かけた人たちはごく少数で、それに先生が二人ほど案内係りで行つたらしいが、はてしもない高原にその僅かの人数が散らばつて蕨を採つてゐると、ひとりひとりが背負ひきれないやうに沢山とれた。初めにきめて置いたとほり駅にもどつて来てお弁当をたべようとすると、もう何時の間にか時間が経つてゐて、帰りに乗るはづであつた電車はあがつま駅を…

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