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入浴
にゅうよく
作品ID50153
著者片山 広子
文字遣い新字旧仮名
底本 「燈火節」 月曜社
2004(平成16)年11月30日
入力者竹内美佐子
校正者伊藤時也
公開 / 更新2010-11-22 / 2014-09-21
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 入浴は、コーヒーを飲み甘い物をたべるのと同じやうに私たちにはたのしいリクリエーシヨンで、同時にどうしてもはぶくことの出来ない清潔法である。戦争で国も家々もだんだん貧乏して来た時に、たき物の都合から私はやうやく思ひきつて街の湯に出かけることにした。その銭湯は家の門を出て西の方角に行き垣根に添つて東南に行くと、すぐであつた。さういふと遠いやうでも、じつは私の家の隣りだつた。この隣りのお湯で私は銭湯の味を覚え、それからもう九年になる。自分の家の湯には数へるほどしかはいらないで満足してゐる。疎開のつもりで越して来たこの農村にも、いつの間にか銭湯が出来て、もらひ湯といふのは流行らなくなつた。
 いま私が行くのはE町のお湯である。水道が来てゐるから東京のまん中とすこしも変らない。清潔な湯や水で顔を洗つてゐる時、ながい年月のいろいろな不便やともしさを考へ出して私は今とても嬉しくなる。大森のお湯では空襲警報がきこえて沢山の裸体がうようよごたごたしたことも思ひ出される。わが国日本に平和が続いて、ゆつくりと湯の中に体をしづめてゐたいと、私はいつもお湯の中で祈る。
 さて入浴中にこのごろ気がついたのであるが、お湯から上がつて最後に顔を洗ふとき、手で洟をかむ人が多くなつたやうで、戦争中やそれ以前にはあまり見かけなかつた事だ。これは疎開で田舎に行つて、田舎の人のしきたりを習ひ覚えて東京に帰つて来た人たちかもしれない。かう言つても田舎の人たちの仕方がきたないと言ふのではない。彼等はおのおの自分たちの家の湯ぶねに浸り、一日の体のよごれを洗ひ、顔を洗ひ鼻もあらつてお湯を出てくる。古い御先祖さんからのしきたりで、それはそれで彼等の流儀なのだ。しかし東京の銭湯は公共のもので、田舎の内風呂とは違つてゐる。すこしは遠慮しなければ。あるひは田舎に疎開しないでも、洟をかむことが竹槍式の礼法みたいに感じて、体を清潔にするためには鼻の内部までもきれいにしてお湯を出ようとする人もあるのだらう。たしかに、清潔にするためで、不潔にするためではない。しかし自分だけ清潔になつても、タイルの上はそれだけ不潔になる。先日お湯の中で考へたことであるが、戦争中の銭湯はもつとごみごみしてもつと不潔であつたけれど、洟をかむ人は少なかつたやうである。この国のもつとも豊かでもつとも愉しかつた大正年間にわれわれは上も下もなく知らずしらずの間に西洋のエチケットを習ひおぼえたのであつたらう。そのお行儀のよさがこの戦争の中途ごろまでは続いてゐたやうである。大正時代には道路に痰つばを吐くと叱られた。罰金だつたやうに思ふが。今は他人の門前だらうが、ばらの花の生垣だらうが、どこへでも遠慮なしに痰を吐きおてうづをする。犬たちはおてうづをするだけで痰や唾は出さない。人間の方が犬よりも不潔になつたのは、敗戦国の民衆のどうでもなれの投げやり気分なのだ…

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