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血を吐く
ちをはく
作品ID50193
著者葛西 善蔵
文字遣い旧字旧仮名
底本 「子をつれて 他八篇」 岩波文庫、岩波書房
1952(昭和27)年10月5日
入力者蒋龍
校正者林幸雄
公開 / 更新2009-11-18 / 2014-09-21
長さの目安約 8 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 おせいが、山へ來たのは、十月二十一日だつた。中禪寺からの、夕方の馬車で着いたのだつた。その日も自分は朝から酒を飮んで、午前と午後の二囘の中禪寺からの郵便の配達を待つたが、當てにしてゐる電報爲替が來ないので、氣を腐らしては、醉ひつぶれて蒲團にもぐつてゐたのだつた。
「東京から女の人が見えました」斯う女中に喚び起されて、
「さう……?」と云つて、自分は澁い顏をして蒲團の上に起きあがつた。
 おせいは今朝の四時に上野を發つて、日光から馬返しまで電車、そこから二里の山路を中禪寺までのぼり、そしてあのひどいガタ馬車に三里から搖られて來たわけだつた。自分は彼女の無鐵砲を叱責した。おせいはふだん着の木綿袷に擦り切れた銘仙の羽織――と云つて他によそ行き一着ありはしないのだが――そんな見すぼらしい身なりに姙娠五ヶ月の身體をつゝんでゐるのだつた。
「そんなからだして、途中萬一のことでもあつたら、たいへんぢやないか。誰がお前なんかに來いと云つた! 默つて留守してゐればいゝんぢやないか。それに女一人で、來るやうなとこぢやないぢやないか!」自分はいきなりガミ/\怒鳴りつけたので、彼女は泣き出した。
「これでも、いろ/\と心配して、ゆうべは寢ずに……そして……斯うしていろ/\と心配してやつて來たんですのに……」彼女は、斯う云つてしやくりあげた。
 雜誌社に金を借りに[#挿絵]つたこと、下宿でも、自分が二ヶ月も彼女ひとり打ちやらかして置いて歸らないので非常に不機嫌なこと、そんなことを冗々と並べ立てた。聽いて見ると尤もな話だつた。が折角の彼女の奔走甲斐もなく、彼女の持つて來た金では、またも、宿料に追付かなくなつてゐた。
「よし/\、わかつた。それではまた、なんとか一工夫しよう。折角來たついでだから、四五日湯治するもいゝだらう。それにしても君は、亂暴だねえ! そんなからだして……」
 二三日前に初雪があつた。その雪どけのハネが、彼女の羽織の脊まであがつてゐた。
「兎に角ドテラに着替へて、ひとはひりして來よう。……何しろこの通り寒いんだからね。冬シヤツにドテラ二枚重ねてゐて、それで寒いんだからね。それに來月早々宿でも日光にさがつちまふんだからね。毎日その準備をしてゐるんで、こつちでも氣が氣でないもんだから、此間から毎日酒ばかし飮んでゐた」木管でひいてる硫黄泉のドン/\溢れ出てゐる廣い浴槽にふたりでつかりながら、自分は久しぶりで孤獨から救はれたホツとした氣持で、おせいに話しかけたりした。
 宿では、千本から漬けるのだと云ふ來年の澤庵の仕度も出來、物置きから雲がこひの戸板など引出して、毎日山をくだる準備に忙がしかつた。今月中に二組の團體客の豫約を受けてゐるほかには、滯在客は自分一人きりで、一晩泊まりの客もほとんど來なかつた。紅葉は疾くに散つて、栂、樅、檜類などの濁つた緑の間に、灰色の幹や枝の樹膚…

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