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男ごゝろ
おとこごころ
作品ID50276
著者永井 荷風
文字遣い新字旧仮名
底本 「日本の名随筆 別巻83 男心」 作品社
1998(平成10)年1月25日
入力者門田裕志
校正者noriko saito
公開 / 更新2010-01-15 / 2014-09-21
長さの目安約 13 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 大方帳場の柱に掛けてある古時計であらう。間の抜けた力のない音でボンボンと鳴り出すのを聞きつけ、友田は寐てゐる夜具の中から手を伸して枕元の懐中時計を引寄せながら、
「民子さん。あれア九時でせう。まだいゝんですか。」と抱寐した女の横顔に頤を載せた。
「あら。もうそんな時間。」と言つたが、女も男と同じやうに着るものもなく寐てゐたので、夜具の上に膝を揃へて起き直りながら、
「浴衣どこへやつたらう。これぢや廊下へも憚りへも行けませんよ。」
「かまふもんですか。廊下にや誰もゐやしません。」
「でも、あなた。話声がするわ。お客さまぢや無いか知ら。」
「われ/\と同じやうな連中でせう。」
「憚りも二階でしたわね。」
「洗面所の突当りでせう。構ふもんですか。」
「でも、これぢやアあんまりですわ。」
 女は夜具の側にぬぎ捨てた旅館の浴衣を身にまとひながら、障子をあけて廊下へ出た。
 男は枕元の銀時計を見直しながら、夜具の上に起直つて手近にぬぎ捨てゝあるメリヤスとワイシヤツを引寄せる。
 洗面所の水の音が止つて、男がワイシヤツの片袖に手を入れかけた時、縮髪を両手で撫でながら女が戻つて来た。
「時間の立つのは全く早いですね。」
「ほんとうねえ。会社を出た時は五時打つたばかりでしたわね。」
「誰もまだ気がつきはしないでせうな。知れるとまづいですからね。」
「注意に注意してるから大丈夫だと思ひますわ。誰しも若い中は仕方がありませんわ。活きてゐるんですもの。ねえ、あなた。」と女は両足を投出し丸めた靴足袋を取上げながら、「公然結婚の約束をしてしまへば誰が何と言はうと構ふことは無いんですからね、わたし、ほんとに早くさうなりたいと思ひますよ。ねえ。あなた。」
 男は何も言はず、片足を立てゝ靴足袋をはく女の様子を眺めながら、静にシヤツの襟のネクタイを結び初めた。

 二人は西銀座裏の堀端。土端の近くに立つてゐる建物の三階の一室を借りて営業してゐる或商事会社の雇用人で。男の方は名を友田信三。年は三十四五、社長の親戚に当るばかりか、社員の中でも古顔の一人であるが、女の方は半年ほど前に新聞の広告を見て志願書を出して雇つて貰つたばかり。年は二十四五。戦災前長年人形町の表通に雑貨店を出してゐた商家の娘で、災後の現在は新小岩へ移転し女学校を出た後、日本橋通の或商店に雇はれ売子になつてゐた事があつた。人並よりは小柄な身に簡易な洋装をした姿。年よりはずツと若く見えるが上に町育ちの言葉使ひやら愛嬌やら、どこか男の目を牽く艶かしさが見えるので、初めて見た其時から友田は何とかしてやりたいやうな気になつてゐた。
 女は会社がひけると毎日歩いて土橋を渡り新橋の駅から国鉄の電車に乗り、秋葉原で総武線に乗り替へて行く道順をも、友田は人知れず其後をつけ、或日にはその住んでゐる親の店の近くまで行つたこともあつた。其間にも折があ…

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