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海洋の旅
かいようのたび
作品ID50278
著者永井 荷風
文字遣い新字旧仮名
底本 「日本の名随筆 別巻51 異国」 作品社
1995(平成7)年5月25日
入力者門田裕志
校正者noriko saito
公開 / 更新2010-02-01 / 2014-09-21
長さの目安約 17 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

Homme libre, toujours tu ch[#挿絵]riras la mer.
Baudelaire.
自由の人よ。君は常に海を愛せん。
ボオドレエル。

     一

 昨日長崎から帰つた。八月の中旬横浜から上海行の汽船に乗つて、神戸門司を経て長崎に上陸し、更に山を越えて茂木の港に出で、入海を横切つて島原半島に遊んだ後、帰り道は同じく上海より帰航の便船をまつて、同じ海と同じ港を過ぎて横浜に上陸したのである。二週日の間自分は海ばかりを見た。島と岬と岩と船と雲ばかりを見た。今だに強い海洋の香気と色彩とが腸まで浸み渡つてゐるやうな心持がする。
 自分はどういふ理由から夏の旅行の目的地を、殊更暑いと云はれた南方の長崎に択んだのか自分ながらも少しくその解釈に苦しむのである。自分は唯広々した大きな景色が見たかつた。自分は出来るだけ遠く自分の住んでゐる世界から離れたやうな心持になりたかつた。人間から遠ざかりたかつた。この目的のためには、汽車で行く内地の山間よりも、船を以て海洋に泛ぶに如くはない。海は実に大きく自由である。自分は東京の市内に於ても、隅田川の渡船に乗つてさへ、岸を離れて水上に泛べば身体の動揺と共に何とも云へぬ快感を覚え、陸地の世界とは全く絶縁してしまつたやうな慰安と寂寞とを感ずる。
 この慰安と寂寞を味はんが為めに、自分は目的なく横浜の埠頭を離れて海に漂つたのである。夏の大空に輝く強い日光、奇怪なる雲の峯、洋々たる波浪、悲壮なる帆影、凡て自由にして広大なる此等の海洋的風景は、如何に自分の心を快活にしてくれたであらう。あゝ此の二三年間、自分はあまりに烈しく、社会的並びに芸術的の圧迫に苦悩し過ぎた。人間が誰でも持つて居べき純朴温厚なる本来の感情さへ、自分は日に日に消滅して行くやうな情ない心持がしてゐた。自分は衰弱した身心の健康を、力ある海洋の空気によつて恢復させ、最少し軟かな暖な感情を以て、自分と自分の周囲を顧ることが出来るやうになりたいと思つた。
 内地に於ける名所古蹟の遊覧には歴史的賞讃の義務を強ひられる虞がある。海洋には純然たる色彩の美があるばかりである。海は飽くまで自由である。自由にして大きな海を見れば、陸上の都会に於て、自分の心を激昂させた凡ての論争も、実に小さなつまらないものとなつて、水平線の下に沈み消えてしまふではないか。新しい劇場や新しい橋梁の建築に対して、或は各処の劇場に演じられる突飛なる新興芸術の試みに対して経験した憤怒の如きは、全く我ながら馬鹿らしい事だと心付く。海洋に於ける大きな自然の美は陸上のつまらない小さな芸術の論争などを顧みさせる余裕を許さない。
 自分は海に沈むすさまじい夕陽の色に酔つた。岬の岩角を噛む恐しい波の牙を見た。緑色した島の上に立つ真白な灯台を見た。山の裾に休息してゐる哀れな漁村の屋根を見た。暗夜に舷を打つ…

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