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里の今昔
さとのこんじゃく
作品ID50280
著者永井 荷風
文字遣い新字旧仮名
底本 「日本の名随筆 別巻15 色街」 作品社
1992(平成4)年5月25日
入力者門田裕志
校正者noriko saito
公開 / 更新2010-01-09 / 2014-09-21
長さの目安約 15 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 昭和二年の冬、酉の市へ行つた時、山谷堀は既に埋められ、日本堤は丁度取崩しの工事中であつた。堤から下りて大音寺前の方へ行く曲輪外の道も亦取広げられてゐたが、一面に石塊が敷いてあつて歩くことができなかつた。吉原を通りぬけて鷲神社の境内に出ると、鳥居前の新道路は既に完成してゐて、平日は三輪行の電車や乗合自動車の往復する事をも、わたくしは其日初めて聞き知つたのである。
 吉原の遊里は今年昭和甲戌の秋、公娼廃止の令の出づるを待たず、既に数年前、早く滅亡してゐたやうなものである。其旧習と其情趣とを失へば、この古き名所は在つても無いのと同じである。
 江戸のむかし、吉原の曲輪がその全盛の面影を留めたのは山東京伝の著作と浮世絵とであつた。明治時代の吉原と其附近の町との情景は、一葉女史の「たけくらべ」、広津柳浪の「今戸心中」、泉鏡花の「註文帳」の如き小説に、滅び行く最後の面影を残した。
 わたくしが弱冠の頃、初めて吉原の遊里を見に行つたのは明治三十年の春であつた。「たけくらべ」が文芸倶楽部第二巻第四号に、「今戸心中」が同じく第二巻の第八号に掲載せられた其翌年である。
 当時遊里の周囲は、浅草公園に向ふ南側千束町三丁目を除いて、その他の三方にはむかしのまゝの水田や竹藪や古池などが残つてゐたので、わたくしは二番目狂言の舞台で見馴れた書割、または「はや悲し吉原いでゝ麦ばたけ。」とか、「吉原へ矢先そろへて案山子かな。」など云ふ江戸座の発句を、そのまゝの実景として眺めることができたのである。
 浄瑠璃と草双紙とに最初の文学的熱情を誘ひ出されたわれ/\には、曲輪外のさびしい町と田圃の景色とが、いかに豊富なる魅力を示したであらう。
 その頃、見返柳の立つてゐた大門外の堤に佇立んで、東の方を見渡すと、地方今戸町の低い人家の屋根を越して、田圃のかなたに小塚ツ原の女郎屋の裏手が見え、堤の直ぐ下には屠牛場や元結の製造場などがあつて、山谷堀へつゞく一条の溝渠が横はつてゐた。毒だみの花や、赤のまゝの花の咲いてゐた岸には、猫柳のやうな灌木が繁つてゐて、髪洗橋などいふ腐つた木の橋が幾筋もかゝつてゐた。
 見返柳を後にして堤の上を半町ばかり行くと、左手へ降る細い道があつた。此が竜泉寺町の通で、「たけくらべ」第一回の書初めに見る叙景の文は即ちこの処であつた。道の片側は鉄漿溝に沿うて、廓者の住んでゐる汚い長屋の立ちつゞいた間から、江戸町一丁目と揚屋町との非常門を望み、また、女郎屋の裏木戸ごとに引上げられた幾筋の刎橋が見えた。道は少し北へ曲つて、長屋の間を行くこと半町ばかりにして火の見梯子の立つてゐる四辻に出る。このあたりを大音寺前と称へたのは、四辻の西南の角に大音寺といふ浄土宗の寺があつたからである。辻を北に取れば龍泉寺の門前を過ぎて千束稲荷の方へ抜け、また真直に西の方へ行けば、三島神社の石垣について阪本通へ…

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